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武将幕末

高杉晋作

たかすぎしんさく

1839 〜 1867

武将「高杉晋作」(幕末)

別名・通称

晋作、東行、谷潜蔵

幕末の長州藩士(1839-1867)。吉田松陰の松下村塾に学び、身分を問わない志願兵による奇兵隊を結成した。功山寺で挙兵して藩の方針を討幕へと転じさせ、第二次長州征伐では幕府軍を退けた。明治維新を見ることなく、肺結核のため29歳で亡くなった。
生涯・逸話
高杉晋作は、天保10年(1839)8月20日、長州藩士・高杉小忠太の長男として、萩城下の菊屋横丁(現在の山口県萩市南古萩町)に生まれた。号は東行(とうぎょう)。 安政4年(1857)、吉田松陰の松下村塾に入り、久坂玄瑞と並んで「村塾の双璧」と呼ばれた。文久2年(1862)には幕府の使節に随行して上海に渡り、2か月ほど滞在して、西洋列強の勢力が及ぶ清の姿を目の当たりにした。 文久3年(1863)6月、下関の防衛を任された晋作は、下関の商人・白石正一郎の屋敷で奇兵隊を結成した。武士だけでなく、農民や町人など身分を問わない志願兵からなる部隊である。元治元年(1864)、四国連合艦隊が下関を砲撃したのちには講和の交渉を任され、彦島を貸すようにという要求を退けた。 同じ年、第一次長州征伐を前に藩が幕府に恭順すると、晋作は12月に下関の功山寺で諸隊を率いて挙兵した。恭順派を退けて藩の主導権を握り、長州藩の方針を幕府と対決する方向へ転じさせた。慶応2年(1866)の第二次長州征伐(四境戦争)では、海軍総督として丙寅丸(へいいんまる)に乗り込んで戦いを指揮し、小倉口では奇兵隊・報国隊を上陸させて幕府軍を敗走させた。 しかし晋作は肺結核を患い、慶応3年(1867)4月14日、下関で亡くなった。享年29(満27歳)。のちに谷潜蔵と改名している。辞世として「おもしろきこともなき世を」の上の句が伝わり、野村望東尼(のむらぼうとうに)が「すみなすものは心なりけり」と下の句を付けたとされる。
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