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武将戦国時代

高橋紹運

たかはしじょううん

1548 〜 1586

武将「高橋紹運」(戦国時代)

別名・通称

吉弘鎮理(改名前の名)、高橋鎮種(高橋氏を継いだ後の名)、孫七郎(通称)、主膳正(官途)

戦国時代の武将(1548〜1586)。豊後国(ぶんごのくに・今の大分県)の大友氏の家臣、吉弘鑑理の次男に生まれ、大友宗麟の命で名門の高橋氏を継ぎ、筑前国(ちくぜんのくに・今の福岡県)の岩屋城(いわやじょう)と宝満城(ほうまんじょう)を預かりました。長男は立花宗茂(たちばなむねしげ)で、立花道雪の婿養子となっています。天正14年(1586)、島津軍に攻められた岩屋城で、約763人の城兵とともに戦い、7月27日に落城。享年39(数え年)でした。
生涯・逸話
高橋紹運は、主君の大友氏の力が弱まっていく時代に、筑前国(ちくぜんのくに・今の福岡県)の城を守り続け、岩屋城(いわやじょう)で最期を迎えた武将です。 【生い立ち】 天文17年(1548)、豊後国(ぶんごのくに・今の大分県)の大友氏の家臣、吉弘鑑理の次男に生まれました。兄は吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)です。 初めの名は吉弘鎮理といい、主君の大友義鎮(よししげ・のちの宗麟〈そうりん〉)と父から、名の字を一字ずつもらったとされます。 【高橋氏を継ぐ】 永禄10年(1567)、高橋鑑種(たかはしあきたね)が大友氏にそむくと、紹運は父や兄とともに出陣しました。永禄12年(1569)には、大友宗麟の命で、高橋氏の岩屋城(いわやじょう)と宝満城(ほうまんじょう)を継ぎ、名を高橋鎮種と改めます。 天正6年(1578)、耳川(みみかわ)の戦いで大友氏が島津氏に大敗し、兄の鎮信をはじめ多くの武将が討ち死にしました。その後、鎮種は髪をそって、紹運と号しました。紹運は法名です。 【立花宗茂の父】 紹運の長男は統虎(むねとら)で、のちの立花宗茂(たちばなむねしげ)です。天正9年(1581)、男子のいない立花道雪(たちばなどうせつ)から何度も頼まれて、統虎は道雪の娘の誾千代(ぎんちよ)の婿養子になりました。 【岩屋城の戦い】 天正14年(1586)7月、島津軍が岩屋城に迫りました。島津方は7月12日に降伏を勧め、14日に攻撃を始めます。 紹運はこれを断り、約763人の城兵とともに城を守りました。島津軍の人数は、記録によって2万人あまりとも、5万人とも書かれています。 7月27日、島津忠長(しまづただなが)が指揮する総攻撃で、岩屋城は落ちました。紹運は高櫓(たかやぐら)に登って切腹したと伝わります。城兵の多くが亡くなり、戦死者の数には、600人ほどとする説から、全員とする説まであります。 【戦いのあと】 島津軍も多くの将兵を失い、態勢を立て直すのに時間がかかりました。その間に、立花山城(たちばなやまじょう)への攻めがゆるみ、豊臣軍が九州に上陸すると、島津軍は薩摩(さつま)へ引き上げました。この戦いは、島津氏が九州をおさえられなかった理由のひとつと言われます。 宝満城には、紹運の妻と次男の統増(むねます)がいました。統増は島津軍に捕らえられましたが、のちに釈放されたとされます。 島津忠長らは、首実検(くびじっけん)の場で紹運の死を惜しんで涙を流したと伝わります。また、豊臣秀吉が、紹運を「乱世に咲いた華」と評したとも伝わります。 【墓所とゆかりの地】 紹運の墓所とされる場所は、福岡県太宰府市の西正寺(さいしょうじ)と、岩屋城二の丸跡の高橋紹運墓、福岡県柳川市の天叟寺(てんそうじ)、福岡県大牟田市の紹運寺(じょううんじ)などがあります。 天叟寺は子の宗茂が、紹運寺は孫の立花種次(たちばなたねつぐ)が建てたと伝わります。