武将平安時代
平重盛
たいらのしげもり
1138 〜 1179

別名・通称
重盛、小松内府、小松殿、灯籠大臣
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】
平重盛を理解する鍵は、父の清盛と後白河院(ごしらかわいん)の間にあって、平氏の中でも温厚な人物として語られてきたことです。『平家物語』では平氏一門の良識派として描かれ、江戸時代の歴史書『日本外史』にも、その人柄を伝える逸話があります。
【生まれと戦い】
保延4年(ほうえん4ねん、1138年)、平清盛の長男として生まれました。保元の乱(1156年)では父に従い、後白河天皇の側で戦いました。平治の乱(1159年)では、叔父の頼盛(よりもり)とともに出陣し、六波羅を守って活躍したと伝えられます。
【昇進と「小松殿」】
昇進を重ね、安元3年(あんげん3ねん、1177年)3月に内大臣になり、左近衛大将(さこんえのたいしょう)も兼ねました。六波羅の小松第に住んでいたことから「小松殿」、内大臣であったことから「小松内府」と呼ばれます。邸宅に48の灯籠を建てたことから、「灯籠大臣」という呼び名もあります。
【殿下乗合事件】
嘉応2年(かおう2ねん、1170年)7月、摂政(せっしょう)の松殿基房(まつどのもとふさ)の従者が、重盛の子・資盛(すけもり)の牛車の無礼をとがめる事件が起こりました。10月には、重盛の武者が基房の従者を襲ったとされ、天皇の元服の儀式が延びました。この出来事は殿下乗合事件と呼ばれます。
【鹿ケ谷の陰謀】
安元3年(1177年)、平氏をたおす計画があるという密告があり、鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀が発覚しました。重盛の妻の兄にあたる藤原成親(ふじわらのなりちか)は流されたあと、殺されました。重盛は成親を助けようと動きましたが、かないませんでした。また、父の清盛が後白河法皇を幽閉しようとしたとき、これをいさめたと伝えられます。このころから、政治の表舞台から遠ざかったとされます。
【最期】
治承3年(じしょう3ねん、1179年)3月に熊野に参詣して、後の世のことを祈ったと記されています。5月25日に出家して、法名は浄蓮(じょうれん)といいました。7月29日、数え年で42歳で亡くなりました。死因には、胃潰瘍(いかいよう)、背中の腫瘍(しゅよう)、脚気(かっけ)などの説があります。病気の間には、後白河法皇が小松第を見舞ったと伝えられます。
【その後】
重盛の死から約4か月後の11月、清盛は後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)に幽閉し、院政をやめさせました。重盛の死で、清盛と法皇の対立を抑える歯止めが失われたことが背景にあった、と説明されます。
【評価】
重盛は、忠臣として「日本三忠臣」の一人に数えられ、温厚で情に厚い人物とされます。『日本外史』には、「忠ならんと欲すれば孝ならず」と悩む逸話があります。一方で、殿下乗合事件では激しい感情を見せたことや、政治力は限られ、平氏の棟梁の地位は弟の宗盛(むねもり)に移ったとする見方もあります。
【ゆかりの寺】
大阪市東住吉区の法楽寺(ほうらくじ)は、治承2年(1178年)に重盛が開いたと伝わる寺です。保元・平治の乱で亡くなった人々を、敵味方の別なく祀るため、源為朝(みなもとのためとも)の念持仏(ねんじぶつ)を安置して建てられたといいます。