武将戦国時代
立花宗茂
たちばなむねしげ
1567 〜 1643

別名・通称
宗茂、統虎、立斎、立花飛騨守、立花左近将監
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、二人の父の家を背負ったことと、関ヶ原で領地を失いながら、約20年かけて旧領に戻ったその歩みにあります。
【二人の父】
立花宗茂(たちばなむねしげ)は、1567年(永禄10年)に、豊後国の筧城(かけいじょう)で生まれたとされます。1569年とする説もあります。幼名は千熊丸(せんくままる)で、のちの名は統虎(むねとら)です。実の父は、大友氏の家臣・高橋紹運です。宗茂は、はじめ高橋家の跡取りとして育てられました。やがて、男の子に恵まれなかった立花道雪(戸次鑑連、べっきあきつら)の願いを紹運が受け入れ、1581年(天正9年)8月、宗茂は道雪の養嗣子(ようしし)となりました。道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)の婿に迎えられ、立花家を継ぐことになったのです。
【島津氏との戦い】
1585年に道雪が亡くなり、宗茂は家督を継いで立花城の城主となりました。翌1586年、島津軍が九州北部へ攻め込み、実の父・紹運は岩屋城(いわやじょう)で戦死しました。宗茂は降伏を勧められましたが、これを断り、立花山城で島津軍と戦ったと伝えられています。同じ年、宗茂は九州に入ってきた豊臣秀吉に服属し、翌1587年の九州平定では先鋒を務めて戦功をあげました。
【柳川の大名として】
この戦功によって、宗茂は筑後国の柳川(当時の表記は柳河)を与えられ、大友氏から独立した大名となりました。石高(こくだか)は、13万石余とされます。菩提寺(ぼだいじ)として、福厳寺(ふくごんじ)を建てました。秀吉は宗茂の働きをたたえて、「西国無双(さいごくむそう)」と評したと伝えられています。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも出陣し、碧蹄館(へきていかん)の戦いで名を挙げたとされます。
【関ヶ原と改易】
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると、宗茂は徳川家康の誘いを断って、西軍に属しました。西軍が敗れたあと、領地は没収され(改易、かいえき)、宗茂は浪人となりました。
【棚倉から柳川へ】
のちに宗茂は、2代将軍・徳川秀忠に召し出され、陸奥国(むつのくに)の棚倉(たなぐら、現在の福島県)に封じられました。1610年に加増され、大坂の陣にも参戦しています。1620年(元和6年)、柳川を治めていた田中氏が改易となったことを受けて、宗茂は柳川に戻り、柳川藩の初代藩主となりました。回復した石高は、10万石余とされます。関ヶ原の戦いで領地を失った大名のうち、旧領を回復したのは宗茂ただ一人だといわれています。
【晩年】
1637年(寛永14年)に隠居し、翌1638年の島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)の鎮圧にも加わりました。その後は髪をおろして、立斎(りゅうさい)と号しました。寛永19年11月25日(西暦では1643年1月)、江戸で亡くなりました。墓所は、福厳寺にあり、歴代の藩主とともに眠っています。