武将戦国時代
立花道雪
たちばなどうせつ
1513 〜 1585

別名・通称
道雪、戸次鑑連、戸次道雪、麟伯軒道雪
生涯・逸話
立花道雪は、大友家の宿老(しゅくろう、重臣)として北九州を支え続け、娘の婿に立花宗茂を迎えて家名を後に残した武将である。ここでは、有名な「雷切」の伝承と、記録で確かめられることを分けて見ていく。
年齢は、すべて数え年で書いている。
【生まれと名前】
永正10年(1513)3月17日、豊後国大野郡の藤北(現在の大分県豊後大野市)で、戸次親家の子として生まれたとされる。次男だったが、長兄が早く亡くなったため、跡継ぎとして育てられた。生年を永正13年(1516)とする辞典もある。
幼名は八幡丸、のちに主君の大友義鑑から一字をもらって、鑑連(あきつら)と名乗った。永禄5年(1562)ごろに剃髪(ていはつ、髪をそること)して、麟伯軒道雪と号した。
元亀2年(1571)には立花家の名跡を継いだが、本人は戸次鑑連、のちに戸次道雪の名で通したとされる。「立花道雪」は、のちの呼び名である。
【雷切の伝承】
『大友興廃記』(おおともこうはいき)によると、天文17年(1548)6月5日、35歳のとき、故郷で大木の下で昼寝をしていると、夕立で雷が落ちかかった。そのとき、枕元の太刀の千鳥(ちどり)で、雷の中にいた雷神を斬った。命は助かったが、その後、左足が不自由になった、という。
この太刀は、「雷切(らいきり)」と呼ばれるようになった。
ただし、実際に斬ったのかどうかは、はっきりしていない。同じころの記録には、道雪が戦場で自分で馬に乗り、槍を取って戦ったという記述もあり、足の不自由さの程度や時期は確かめられない。
雷切丸は、道雪の死後、立花宗茂が受け継いだ。現在は立花家史料館に所蔵されている。
【手輿で指揮した戦場】
晩年の道雪は、手輿に乗って軍勢を指揮したとされる。記録に出てくる最初は、元亀元年(1570)の巨勢・若宮の戦いである。天正7年(1579)の生松原の戦いや、天正12年(1584)の筑後への遠征でも、手輿に乗ったという。
「大きな戦が37回、小さな戦が100回余り」あったと伝わるが、この数字の出典は確認できない。
【大友家の宿老として】
大友義鑑と義鎮(宗麟)の二代に仕え、臼杵鑑速(うすきあきはや)、吉弘鑑理(よしひろあきただ)とともに「三宿老(さんしゅくろう)」に数えられた。永禄4年(1561)には加判衆(かはんしゅう、政治を決める重臣の一人)となり、筑前では守護代を務めた。
永禄11年(1568)7月4日の夜に、立花山城(福岡県)を攻め落とした。元亀2年(1571)には、立花家の名跡を継ぎ、立花山城の城主となった。
天正6年(1578)、宗麟が島津氏を攻める日向(ひゅうが)への出兵に反対して、従軍しなかった。耳川(みみかわ)の戦いに大友軍が敗れたあとは、宗麟や義統(よしむね)を批判したとされる。
【誾千代と宗茂】
天正3年(1575)、家督を娘の誾千代(ぎんちよ)に譲った。天正9年(1581)には、高橋紹運(たかはしじょううん)の子の統虎(むねとら、のちの立花宗茂)を婿養子に迎えた。
紹運は、道雪の家臣ではなく、同じ大友家の一族・家臣として、筑前で道雪とともに大友方の中心となって戦った人物である。
【最期】
天正13年(1585)、筑後に出陣した。6月の柳川城攻めの最中に、高良山(こうらさん)の陣中で病にかかり、9月11日に亡くなった。73歳である。高橋紹運が必死に看病したと伝わる。
法号は梅岳霊神(ばいがくれいしん)で、天明3年(1783)に神号が贈られた。
【ゆかりの地】
福厳寺(ふくごんじ、福岡県柳川市奥州町)は、立花家の菩提寺で、道雪と宗茂の墓所がある。もとは立花山のふもとにあった曹洞宗の寺で、宗茂が柳川に城を構えた天正15年(1587)に柳川へ移り、寛文9年(1669)に黄檗宗(おうばくしゅう)に改まった。
三柱神社(柳川市三橋町)は、道雪、宗茂、誾千代を祀る神社である。天明3年(1783)に、柳川城の三の丸に道雪を祀る社として創建された。