天皇奈良時代
聖武天皇
しょうむてんのう
701 〜 756

別名・通称
聖武、首皇子、勝宝感神聖武皇帝、沙弥勝満
第45代天皇(701-756)。
疫病や政変が続くなか、仏教の力で国を守ろうとし、天平文化が花開いた時代の天皇。
全国への国分寺・国分尼寺の整備、東大寺の大仏の造立、鑑真の来日などで知られる。
生涯・逸話
聖武天皇を理解する鍵は、疫病や政変が続くなかで、仏教の力で国を守ろうとした天皇だった、という点にある。
【即位まで】
大宝元年(701)、第42代文武天皇(もんむてんのう)と、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の子として生まれた。若いころは首皇子(おびとのみこ)と呼ばれた。
神亀元年(724)、元正天皇(げんしょうてんのう)から位を譲られ、24歳で即位した。第45代の天皇である。
即位は異例で、権力の基盤は不安定だったとされる。
【光明皇后と藤原氏】
神亀6年(729)、長屋王(ながやおう)の変のあと、藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)が、皇族ではない女性として初めて皇后に立てられた。
長屋王の変の背景には、藤原氏の思惑があったとされる。
【疫病・乱・遷都】
天平9年(737)には天然痘が大流行し、藤原四兄弟をはじめ、政府の高官の多くが亡くなった。
天平12年(740)には藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が起きた。
聖武天皇は乱のさなかに伊勢や美濃へ行幸し、恭仁京(くにきょう)へ都を移した。
その後も難波、紫香楽宮(しがらきのみや)と都を移し、最終的に平城京へ戻った。
約5年にわたるこの動きは、「彷徨(ほうこう)五年」と呼ばれる。
【国分寺と大仏】
こうした不安のなか、天平13年(741)、聖武天皇は全国の国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるよう命じた。
僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、尼寺は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」で、国を守る祈りを行わせる寺とされた。
奈良の東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺に定められた。
天平15年(743)には、盧舎那仏(るしゃなぶつ)、いわゆる奈良の大仏の造立を命じる詔(みことのり)を出した。
天皇は河内の知識寺(ちしきじ)を訪れ、行基と対面したのち、紫香楽宮での大仏造立を決意したとされる。
造立は最終的に奈良の東大寺で行われ、工事は天平17年(745)に始まり、天平21年(749)に完成したと東大寺は伝えている。
大仏づくりでは、行基が勧進(かんじん、寄付集め)を担った。
天皇自らも「三宝の奴(さんぼうのやっこ)」、つまり仏・法・僧に仕える者と称した。
聖武天皇(発願)、良弁(ろうべん、開基)、行基(勧進)、菩提僊那(ぼだいせんな、導師)の4人は、「四聖(ししょう)」と呼ばれる。
【譲位と開眼供養】
天平勝宝元年(749)、娘の阿倍内親王(あべのひないしんのう、のちの孝謙天皇)に位を譲り、太上天皇(だいじょうてんのう)となった。
譲位して太上天皇となった初めての男性天皇とされる。
出家して「沙弥勝満(しゃみしょうまん)」とも称したが、出家の時期には諸説ある。
天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺で大仏の開眼供養が営まれた。
聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇太后らが参列したとされる。
【いまの大仏】
奈良の大仏の像高は14.87メートルである。
大仏は二度の戦火で傷み、改めて鋳造された。いまの姿は、胴部が鎌倉時代、頭部が江戸時代の元禄のころの修造で、創建当時のままの部分は台座の蓮弁(はすのはなびら)などに限られる。
【鑑真の来日】
天平勝宝6年(754)、唐の高僧・鑑真(がんじん)が、聖武天皇の招きに応じて来日した。
渡航には12年を要し、その間に両目の視力を失ったと伝わる。
来日後は東大寺で受戒(じゅかい)の儀を行い、のちに平城京に唐招提寺(とうしょうだいじ)を開いた。
【崩御とその後】
天平勝宝8年(756)5月2日(西暦では756年6月8日)、56歳で崩御した。
陵は、奈良市法蓮町(ほうれんちょう)の佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)である。
七七忌(なななぬか)には、光明皇后が聖武天皇の遺愛の品々を東大寺の大仏に献上し、その一部が正倉院に伝わっている。
「勝宝感神聖武皇帝」という名は、天平宝字2年(758)に贈られた。
【ゆかりの地】
東大寺(奈良市)は総国分寺で、大仏殿に盧舎那仏を安置する。
法華寺(奈良市)は、総国分尼寺に定められた寺である。
唐招提寺(奈良市五条町)は、鑑真が759年に開いた寺で、金堂は国宝になっている。
佐保山南陵(奈良市法蓮町)は、聖武天皇の陵である。