TabiShiri
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武将戦国時代

柴田勝家

しばたかついえ

1522 〜 1583

武将「柴田勝家」(戦国時代)

British Museum, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

勝家、鬼柴田、かかれ柴田、お市の方再婚相手

戦国時代の武将(1522-1583)。織田信長の筆頭家老。本能寺の変後、お市の方と再婚するも、賤ヶ岳の戦い(1583)で豊臣秀吉に敗北、北ノ庄城(=福井)で自害した。 「鬼柴田」「かかれ柴田」の異名で恐れられた稀有な勇将。
生涯・逸話
織田信長家臣団の筆頭、「鬼柴田」。大永2年(1522)頃、尾張国の柴田勝義の子として生まれる。 若くして織田信秀(=信長)に仕え、後に信長の重臣となった稀有な経歴。本能寺の変以前の信長家臣団の筆頭で、北陸方面軍司令官として越前・加賀を平定した稀有な大将。 「鬼柴田」「かかれ柴田」=戦場で「かかれ!」と号令して突進する稀有な異名の勇将。 天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が死んだ際、上越に出陣中だったため京都に駆けつけられなかった。 清洲会議で羽柴秀吉(=豊臣秀吉)と対立、信長の妹・お市の方を妻に迎えて秀吉に対抗した。 天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで甥・佐久間盛政の独走もあり秀吉に大敗。 北ノ庄城(=福井市)に退却し、お市と共に自害した。享年62。 -------------------------------------------------- 歌川国芳に描かれた「瓶割り柴田」
Utagawa Kuniyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons
Utagawa Kuniyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons
柴田勝家は、江戸時代の武者絵でも「豪勇無双の武将」として繰り返し描かれた人物である。とりわけ有名なのが、「瓶割り柴田」の逸話である。 元亀元年(1570)、近江の長光寺城で六角氏の軍勢と対峙した際、城内の水を断たれて窮地に陥った勝家が、兵たちに残った水を十分に飲ませたうえで水瓶を叩き割り、「もはや後には退かない」という覚悟を示して城外へ討って出た、という逸話が伝わっている。この故事から、勝家は「瓶割り柴田」と呼ばれるようになったとされる。 この「水瓶を割る」という象徴的な場面を描いたのが、歌川国芳の作品である。 国芳は『太平記英勇伝』の一枚で、柴田勝家を「千場田修理進辰家」と表記して描いている。これは実在の柴田勝家をそのままの名前で描いたものではなく、江戸時代の出版事情を背景に、名前を一部変えて表現したものである。画中では勝家が槍を携え、足元には割れた水瓶が描かれており、「瓶割り柴田」という武勇伝を一目で想起させる構成になっている。 さらに国芳は後年、「水瓶砕名誉顕圖(みずがめをくだいてめいよをあらわすのず)」でも柴田勝家を題材としている。こちらは三枚続の大画面で、勝家が馬上から敵陣へ突撃する姿を中心に、敵兵が吹き飛ばされるほどの激しい戦闘を描いた、国芳らしい豪快な武者絵となっている。題名も「水瓶を砕いて名誉を顕す」という意味で、まさに「瓶割り柴田」の故事を題材としている。 ただし、これらの作品は現代的な意味での「歴史上の戦闘場面の再現」ではない。江戸時代の人々が共有していた軍記・武勇伝のイメージをもとに、「鬼柴田」「かかれ柴田」と呼ばれた猛将のキャラクターを、より劇的・英雄的に表現したものと考えると分かりやすい。 また、『太平記英勇伝』というシリーズ名にも江戸時代ならではの事情がある。戦国時代の武将を描きながら、作品では柴田勝家を「千場田修理進辰家」のように別名で表現している。これは、実在の武将を題材としながらも、過去の時代の物語として扱うことで出版上の制約をかわす工夫の一つだった。 そのため国芳の描く勝家は、史料から復元した「実際の柴田勝家」というより、江戸時代に形成された「豪胆で、槍を振るい、敵陣へ真っ先に突撃する鬼武者・柴田勝家」という英雄像に近い。 史実では、信長の死後に秀吉との政争に敗れ、賤ヶ岳の戦いを経て北ノ庄城でお市の方とともに最期を迎えた悲劇の武将である。一方、国芳の作品では、その悲劇よりも「瓶割り」「鬼柴田」「かかれ柴田」といった戦場での圧倒的な武勇が強調されている。 つまり、国芳の武者絵を見ると、柴田勝家が後世にどのように記憶され、英雄としてイメージ化されていったのかを知ることができるのである。