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武将幕末

芹沢鴨

せりざわかも

? 〜 1863

武将「芹沢鴨」(幕末)

別名・通称

木村継次、下村継次

幕末の水戸の浪士(?-1863)。浪士組に加わって京都へ上り、新選組の前身である壬生浪士組で局長の筆頭となった。粗暴なふるまいが多かったとされ、文久3年(1863)9月、近藤勇らの一派に壬生の屯所で斬られた。
生涯・逸話
芹沢鴨(せりざわかも)は、新選組の始まりの時期に組を率いた人物である。そして、組の中の争いの末に命を落とした人物でもある。近藤勇や土方歳三の名で知られる新選組の歴史は、芹沢の時代から書き起こされる。 【水戸の浪士】 芹沢は常陸国(現在の茨城県)の郷士の家に生まれたとされる。生まれた年ははっきりしない。本名は木村継次(きむらつぐじ)といい、下村継次とも名乗った。剣術は戸ヶ崎熊太郎(とがさきくまたろう)に学び、神道無念流(しんとうむねんりゅう)を修めた。 水戸の尊王攘夷派である天狗党に属していたという説もあるが、それを裏づける確かな資料はないとされる。 【壬生浪士組の局長】 文久2年(1862)、幕府が江戸で浪士を募ると、芹沢はこれに応じ、清河八郎の率いる浪士組の一員として京都へ上った。 浪士組の多くが江戸へ戻ったのちも京都に残った者たちは、壬生(みぶ)を拠点に壬生浪士組をつくった。これがのちの新選組である。初めの局長は芹沢・近藤勇・新見錦(にいみにしき)の3人で、芹沢はその筆頭とされた。 【評価と最期】 芹沢の人柄については、事典に「性質粗暴、酒乱」と記され、京都の豪商に金品をしきりに求めたともいわれる。こうした行いは、組を預かる会津藩にとっても好ましくないものだったとされる。 文久3年(1863)9月18日の夜(16日とする説もある)、芹沢は壬生の屯所で、近藤勇の一派に斬られて亡くなった。遺体は壬生寺に葬られた。これにより、近藤らが組の中心を担うことになった。