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武将戦国時代

仙石秀久

せんごくひでひさ

1552 〜 1614

武将「仙石秀久」(戦国時代)

別名・通称

秀久、仙石越前守

戦国時代から江戸時代のはじめの武将です。 豊臣秀吉のもとで讃岐(今の香川県)をもらいましたが、九州の戸次川(へつぎがわ)の戦いで大敗して領地を失いました。 のちに小田原攻めの手柄で許され、信濃国小諸(こもろ、今の長野県小諸市)の城主となりました。
生涯・逸話
【大きな失敗から返り咲いた武将】 仙石秀久の人生は、大名から浪人に転げ落ち、もう一度大名に返り咲いた、浮き沈みの大きなものでした。 【信長・秀吉のもとで】 美濃国(今の岐阜県南部)の仙石久盛(ひさもり)の子として生まれました。 はじめは織田信長に仕え、天正(てんしょう)2年(1574)に近江で1000石、天正8年(1580)には淡路洲本(すもと)で5万石をもらいました。 その後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)の四国攻めの功で讃岐をもらい、高松城主となりました。石高は10万石とされます。 【戸次川の戦い】 天正14年(1586)、秀吉は秀久を軍監(ぐんかん、戦の監督役)として九州へ送りました。 秀久は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・信親(のぶちか)父子や十河存保(そごうまさやす)、大友氏の軍とともに、豊後(今の大分県)へ攻めこんだ島津家久(しまづいえひさ)の軍と戸次川で戦いました。 しかし、退いた島津軍を追ったところで、草むらや土手にかくれていた鉄砲隊に襲われ、大敗しました。この戦いで、長宗我部信親は22歳で亡くなっています。 【高野山への追放】 秀久は軍監の役目を放り出して讃岐へ戻ったため、秀吉はひどくいかりました。 秀久は領地をすべて取り上げられ、高野山へ追放されました。 【小田原攻めで返り咲く】 天正18年(1590)、浪人の身で小田原攻めに加わった秀久は、その勇ましさをたたえられて許されました。 そして信濃国の小諸城主となり、5万石をもらいました。 【小諸の殿さま】 秀吉が亡くなると徳川家康に近づき、慶長(けいちょう)5年(1600)の関ヶ原の戦いのときには徳川秀忠に従って、上田城攻めに加わりました。 小諸を24年にわたって治め、城の二の丸や黒門・大手門をつくりました。 小諸にそばを広めたともいわれ、地元では「仙石さん」と呼ばれて親しまれています。 【最期】 慶長19年(1614)5月6日、江戸から小諸へ帰るとちゅうの武蔵国鴻巣(こうのす)で、64歳で亡くなりました。 あとは子の忠政(ただまさ)がつぎました。