学者・文化人戦国時代
千利休
せんのりきゅう
1522 〜 1591

painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園, Public domain, via Wikimedia Commons
別名・通称
利休、千宗易、宗易、茶聖
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】
千利休を理解する鍵は、天下人のそばで、むだをそぎ落とした茶の湯を極めたことにある。豪華な茶会を好んだ秀吉に仕えながら、利休は二畳の小さな茶室に茶の湯の心を込めた。その緊張関係は、最後には利休の死という形で終わる。
【堺の商家に生まれる】
大永2年(1522)、和泉国(いずみのくに)堺の商家に生まれた。父の田中与兵衛は、倉庫業を営む富商「納屋衆(なやしゅう)」で、魚問屋も営んでいたとされる。
通称は与四郎(よしろう)。「千」の姓は、祖父の千阿弥(せんあみ)にちなむと伝わる。
【茶の湯を学ぶ】
17歳から北向道陳(きたむきどうちん)に茶の湯を学び、のちに武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した。
堺の南宗寺(なんしゅうじ)の大林宗套(だいりんそうとう)のもとで禅を学び、「宗易(そうえき)」という法名を授かっている。
確かな記録に残る最初の茶会は、天文13年(1544)、23歳のときのものである。
【信長と秀吉の茶頭】
織田信長に、今井宗久・津田宗及とともに茶頭(さどう)として仕えた。
本能寺の変ののちは豊臣秀吉に仕え、三千石を与えられたという。
天正13年(1585)、秀吉の関白就任を祝う禁中の茶会で、正親町(おおぎまち)天皇から「利休居士(りきゅうこじ)」の号を賜った。
天正15年(1587)に京都の北野天満宮で開かれた北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)でも、実質的な主催者だったと考えられている。
【待庵】
京都府大山崎町の妙喜庵(みょうきあん)にある「待庵(たいあん)」は、天正10年(1582)に秀吉の命で建てられたと伝わる、わずか二畳の茶室である。利休のわび茶をいまに伝える茶室として、国宝に指定されている。
【切腹】
天正19年(1591)2月28日、秀吉の命で切腹した。70歳。
表向きの理由は、大徳寺の山門の上に利休の木像を置いたことと、茶道具を不当な値で売ったこととされる。秀吉の弟・秀長の死後の政治的な対立など、背景にはさまざまな事情があったと考えられている。
辞世には「人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這宝剣 祖仏共殺」の句が残る。
【ゆかりの地をたどる】
堺市堺区宿院町西には、伝承地として堺市の史跡に指定された「千利休屋敷跡」があり、椿の井戸が残る。
墓所は京都・大徳寺の聚光院(じゅこういん)などにある。