公家幕末・明治
三条実美
さんじょうさねとみ
1837 〜 1891

別名・通称
実美、梨堂、梨木誠斉
幕末・明治の公家・政治家(1837〜1891)。尊王攘夷派の公家として長州藩と結びましたが、文久3年(1863)の政変で京都を追われました(七卿落ち)。
明治新政府では右大臣を経て太政大臣となり、内閣制度ができてからは内大臣をつとめました。
生涯・逸話
京都を追われて九州の太宰府に身を寄せた若い公家が、わずか数年後には新しい政府の最高位に就いた。三条実美(さんじょうさねとみ)の生涯は、幕末から明治への激しい移り変わりそのものだった。
【攘夷派の公家として】
天保8年(1837)、京都の公家・三条実万(さねつむ)の四男として生まれた。号は梨堂(りどう)。
幕末には、外国を打ち払うべきだとする攘夷派(じょういは)の公家の中心となり、長州藩と手を結んだ。
文久2年(1862)には天皇の使いである勅使として、姉小路公知(あねがこうじきんとも)とともに江戸に下り、将軍・徳川家茂に攘夷を実行するよう求めた。
【七卿落ちと太宰府】
文久3年(1863)8月18日の政変で攘夷派は朝廷から追い出され、実美ら7人の公家は京都を逃れて長州へ向かった。これを「七卿落ち(しちきょうおち)」という。
慶応元年(1865)1月、実美ら5人は長州から太宰府へ移され、太宰府天満宮の境内にある延寿王院(えんじゅおういん)で、およそ2年あまりを過ごした。ここでは、のちの新しい政治のあり方について話し合いが重ねられたという。
【明治政府の最高位へ】
慶応3年(1867)12月、王政復古によって京都に戻り、新政府の議定(ぎじょう)となった。その後、副総裁、明治2年(1869)に右大臣、明治4年(1871)に太政大臣(だじょうだいじん)へと進んだ。
明治6年(1873)の征韓論争では、朝鮮への使節派遣をめぐって対立する二つの派の間にはさまれて判断に苦しみ、心労から熱を出して倒れた。
【内大臣として】
明治18年(1885)に内閣制度ができると、内大臣に移った。明治22年(1889)には、黒田清隆内閣が総辞職したあと、内大臣のまま約2か月の間、内閣総理大臣を兼ねている。
明治24年(1891)2月18日、55歳で亡くなった。国葬が行われ、東京都文京区の護国寺に葬られた。
【ゆかりの地をたどる】
福岡県太宰府市の太宰府天満宮の境内には、実美ら五卿が身を寄せた延寿王院がある。
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