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武将戦国・江戸

真田信之

さなだのぶゆき

1566 〜 1658

武将「真田信之」(戦国・江戸)

別名・通称

信之、信幸、源三郎、真田伊豆守

戦国時代から江戸時代のはじめの武将です(1566年から1658年)。真田昌幸(さなだまさゆき)の長男で、弟は信繁(のぶしげ、幸村)です。徳川家康の養女の小松姫(こまつひめ)を妻に迎え、関ヶ原の戦い(1600年)では父と弟とは別れて東軍につきました。戦後は上田藩9万5千石の大名となり、元和8年(1622年)には松代(まつしろ)へ移りました。数え年で93歳まで生き、家臣や領民に慕われた名君と伝えられます。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】 真田信之を理解する鍵は、父の昌幸や弟の信繁とは別の道を選び、徳川方について、江戸時代を生きぬいたことです。真田家は江戸時代を通じて続きました。 【生まれ】 永禄9年(えいろく9ねん、1566年)、真田昌幸の長男として生まれました。母は山手殿(やまのてどの)です。通称は源三郎といい、文禄3年(ぶんろく3ねん、1594年)に従五位下(じゅごいのげ)の伊豆守(いずのかみ)に任じられました。はじめは「信幸」と名乗り、のちに「信之」と改めました。改名の年は慶長5年(1600年)と推定されますが、理由は、父との決別の意味とする説と、家康を憚っただけではないとする説があります。 【若いころの戦い】 天正13年(てんしょう13ねん、1585年)の第一次上田合戦では、戸石城(といしじょう)に入り、徳川軍との戦いで勝利に貢献したとされます。天正18年(1590年)の小田原征伐では、父とともに松井田城(まついだじょう)の攻略などで功をあげ、沼田(ぬまた)の領地を改めて与えられました。徳川家康の与力大名(よりきだいみょう、有力な大名に付けられる大名)にもなりました。 【小松姫との結婚】 妻は、本多忠勝(ほんだただかつ)の娘の小松姫です。家康の養女となって嫁いだとするのが通説ですが、秀忠(ひでただ)の養女とする所伝もあります。結婚の年は、天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の説まで、資料によって分かれています。 【犬伏の別れ】 慶長5年(けいちょう5ねん、1600年)、関ヶ原の戦いに先立ち、真田氏の記録によれば、昌幸と信之の父子が下野国(しもつけのくに)の犬伏(いぬぶし、今の栃木県佐野市)に宿営したとき、東軍と西軍に分かれることになったと伝えられます。昌幸と弟の信繁は西軍、信之は東軍に加わりました。信之は徳川秀忠の本陣に駆けつけて、異心のないことを誓い、上田城攻めにも加わったと記されています。 【戦のあと】 西軍についた昌幸と信繁は、本多忠勝らの働きかけなどにより助命され、紀伊国(きいのくに)の九度山(くどやま)に流されました。信之は、上田領を合わせた9万5千石(沼田3万石を含む)の大名となりました。上田城は破却を命じられました。元和2年(げんな2ねん、1616年)、沼田領を長男の信吉(のぶよし)に譲り、上田城に移りました。 【松代への移り】 元和8年(1622年)10月、信濃国(しなののくに)の松代に加増されて移りました。沼田3万石も引き続き領有し、松代10万石と合わせて13万石とされます。この転封について、徳川秀忠の嫌がらせとする見方と、要地を任せるに足る人物と評価された証拠とする見方があります。 【晩年と最期】 晩年に家督を次男の信政(のぶまさ)に譲って隠居しましたが、万治元年(まんじ元年、1658年)2月に信政が亡くなり、後継者争いが起こりました。結局、信政の六男の幸道(ゆきみち)が3代藩主となり、2歳と幼かったため、信之が復帰して藩政を執りました。同じ年の10月17日、松代で亡くなりました。数え年で93歳でした。 【人柄】 草津温泉での湯治と、信濃の自然を眺めることを好みました。身分に関係なく、役に立つ意見を取り入れたと伝えられます。亡くなったときには、家臣や百姓が死を悼み、出家する者が続いたと伝えられ、慕われた名君とされます。 【墓所と霊屋】 墓所は長野市の大鋒寺(だいほうじ)にあります。松代藩真田家の菩提寺(ぼだいじ)の長国寺(ちょうこくじ)には、信之の霊屋(たまや、墓所の建物)があり、国の重要文化財です。万治3年(1660年)に建てられたと紹介されています。境内には歴代藩主の墓所もあり、元和8年の松代への移りにともなって、寺は現在地に移されて、長国寺と名を改めました。