TabiShiri
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武将戦国時代

真田昌幸

さなだまさゆき

1547 〜 1611

武将「真田昌幸」(戦国時代)

別名・通称

昌幸、真田安房守、表裏比興の者

戦国・安土桃山時代の武将(1547-1611)。真田幸村(信繁)の父。武田信玄・勝頼に仕え、武田氏の滅亡後は、徳川・上杉・北条などの大名の間で立場を使い分けて真田家を守った。上田城で徳川軍を二度翻弄したことで知られ、関ヶ原の戦いのあとは九度山に蟄居した。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、小さな領主が大きな勢力の間で生き残るために磨いた、「立場を使い分ける知恵」にある。 【武田家のもとで】 天文16年(1547)、信濃国(しなののくに、現在の長野県)に、真田幸綱(ゆきつな)の三男として生まれた。11歳のころ人質として甲斐(かい)の甲府へ送られ、武田信玄(たけだしんげん)・勝頼(かつより)に仕えた。永禄4年(1561)の川中島の戦いで初陣を飾った。二人の兄は天正3年(1575)の長篠の戦いで戦死したため、昌幸が真田家を継いだ。 【武田氏の滅亡と生き残り】 天正10年(1582)に武田氏が滅びると、昌幸はまず織田信長に従い、滝川一益(たきがわかずます)の配下についた。まもなく本能寺の変で信長が討たれると、徳川家康、北条氏政(ほうじょううじまさ)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)が、武田氏の旧領をめぐって争った。昌幸はその間で、味方する相手を何度も変えながら、真田家を守った。こうした動きから、立場を使い分けるしたたかな人物という意味で、「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの)」と呼ばれた。 【第一次上田合戦】 昌幸は上田城を築き、天正13年(1585)、攻めてきた徳川軍約7,000を、2,000に満たない兵で迎え撃った。徳川軍を城の近くまで誘い込み、長男の信幸(のぶゆき、のちの信之)が率いる別働隊も加わって攻撃すると、徳川軍は大きく乱れて引き上げた。のちに昌幸は家康と和睦し、豊臣氏に従った。 【関ヶ原と第二次上田合戦】 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男の信繁(のぶしげ、通称は幸村)は西軍に、長男の信幸は東軍に分かれた。昌幸は上田城にこもり、関ヶ原へ向かう徳川秀忠(ひでただ)の軍勢を足止めした。秀忠は関ヶ原の本戦に間に合わなかった。 【九度山での晩年】 戦のあと、昌幸は家康から領地を取り上げられ、死罪を言い渡されたが、信幸と本多忠勝(ほんだただかつ)の願いで命を助けられた。高野山(こうやさん)で蟄居(ちっきょ、謹慎すること)したのち、ふもとの九度山(くどやま、現在の和歌山県九度山町)に移った。許されることを願ったが認められず、慶長16年(1611)6月4日、九度山で病没した。数え年で65歳であった。