武将幕末・明治
大鳥圭介
おおとりけいすけ
1833 〜 1911

別名・通称
大鳥純彰、如楓
幕末から明治の幕臣・外交官(1833〜1911)。播磨の村医者の家に生まれ、適塾で蘭学を学んだのち、幕府の歩兵奉行となった。戊辰戦争では旧幕府軍を率いて戦い、箱館で降伏。明治政府では工部大学校長や学習院院長を務め、清国・朝鮮の公使となった。
生涯・逸話
大鳥圭介(おおとりけいすけ)は、村の医者の子から学問で身を立て、幕末には軍を率い、明治には教育と外交で働いた、異色の経歴の人物です。
西洋の軍事や工学の知識を持ち、幕府の兵を洋式に鍛えました。
箱館(はこだて)での戦いのあとは、新しい政府に仕えました。
【生い立ちと学び】
天保4年(1833)2月25日、播磨国(はりまのくに、兵庫県南西部)の細念村(さいねんむら)で生まれました。現在の赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)にあたります。
家は村の医者でした。
号は如楓(じょふう)です。
少年のころは、岡山の閑谷学校(しずたにがっこう)で5年間、漢学や儒学を学びました。
その後、赤穂の医者のもとで西洋医学を学びます。
嘉永5年(1852)には大坂へ出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で蘭学(らんがく、オランダ語の学問)を学びました。
適塾では、按摩(あんま)や筆写の仕事をして生活費を稼いだと伝わります。
安政元年(1854)に江戸へ出ると、軍学や工学に関心を移しました。
安政4年(1857)には、江川英龍(えがわひでたつ)の流れをくむ江川塾(縄武館)で、兵学を教える立場になります。
【幕臣として】
文久3年(1863)、幕府の洋学の学校である開成所(かいせいしょ)の教授を兼ねました。
元治2年(1865)には陸軍所に出仕して、旗本になります。
慶応3年(1867)には、洋式の歩兵部隊である伝習隊(でんしゅうたい)の創設に加わりました。
慶応4年(1868)2月28日には、歩兵奉行(ほへいぶぎょう)になりました。
この間に、西洋の軍事書を訳した『砲科新論』や『築城典刑』などを出版しています。
【戊辰戦争】
慶応4年4月11日、江戸城が明け渡された日に、大鳥は伝習隊を率いて江戸を脱出しました。
北関東から会津(あいづ、福島県西部)へと転戦し、母成峠(ぼなりとうげ)の戦いを経て、仙台へ向かいました。
仙台で榎本武揚(えのもとたけあき)と合流し、蝦夷地(えぞち、北海道)へ渡ります。
新しくつくられた箱館政権(蝦夷共和国とも呼ばれます)では、陸軍奉行を務めました。
明治2年(1869)5月18日、五稜郭(ごりょうかく)で降伏し、東京へ送られて牢に入れられました。
このときの護送の記録は、『流落日記(りゅうらくにっき)』にまとめられています。
【明治政府での活躍】
明治5年(1872)1月8日、特赦(とくしゃ、罪を許すこと)で出獄しました。
黒田清隆(くろだきよたか)の尽力があったとされます。
その後は新政府に仕え、開拓使(かいたくし)や大蔵省の仕事をし、欧米を回って公債(国の借金)発行の交渉などにあたりました。
明治7年(1874)に帰国して工部省に入り、明治10年(1877)には工部大学校(こうぶだいがっこう)の初代校長になりました。
明治18年(1885)に元老院議官(げんろういんぎかん)、明治19年(1886)には学習院院長と華族女学校長を兼ねました。
【公使として】
明治22年(1889)6月、清国(しんこく、中国)への特命全権公使に任じられ、11月に赴任しました。
明治26年(1893)7月には朝鮮公使を兼ね、翌年6月に朝鮮へ赴任します。
日清戦争が起こる直前の朝鮮で、日本の公使として外交交渉にあたりました。
明治27年(1894)10月に公使を解かれ、11月には枢密顧問官(すうみつこもんかん)になりました。
明治33年(1900)5月9日には、男爵(だんしゃく)の位を授けられました。
【最期】
明治44年(1911)6月15日、亡くなりました。数え年で79歳でした。
【ゆかりの地】
兵庫県上郡町の岩木(いわき)の石戸地区が、生誕の地とされます。
生家の跡には、「いきいき交流ふるさと館」が建っています。
上郡町役場の前には、大鳥圭介の像があります。