武将戦国時代
大谷吉継
おおたによしつぐ
1559 〜 1600

別名・通称
吉継、紀之介、大谷刑部、大谷刑部少輔、吉隆
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、秀吉のもとで実務に力を発揮した武将が、病を抱えながら、友の石田三成とともに関ヶ原へ向かったと語り継がれていることにあります。
【生まれと家系】
大谷吉継(おおたによしつぐ)は、永禄2年(1559年)の生まれとされてきました。ただし近年は、永禄8年(1565年)ごろとする説が有力になっています。生まれた場所は近江(おうみ、今の滋賀県)とする説が知られますが、豊後(ぶんご)の大友氏の家臣・大谷盛治(もりはる)の子とする説や、近江の六角氏の元家臣の子とする説もあり、出自には諸説あります。母は、秀吉の妻の北政所(きたのまんどころ)に仕えた女性とされます。通称は紀之介(きのすけ)、官位は従五位下(じゅごいのげ)・刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)で、「大谷刑部」とも呼ばれました。
【秀吉に仕えて】
吉継は豊臣秀吉に仕えました。九州攻めでは、石田三成とともに兵糧などの輸送を担当する奉行(兵站奉行、へいたんぶぎょう)を務めたとされます。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、軍監(ぐんかん、戦いを見届ける役目)などを務めました。天正17年(1589年)には越前国敦賀(今の福井県敦賀市)を与えられて敦賀城主となり、のちに加増されて、「敦賀5万石」と呼ばれる領地を治めました。
【病といわれるもの】
吉継は、若いころから病に悩まされていたとされます。天正14年(1586年)ごろの記録に、悪瘡(あくそう、できもの)を患っていたとする記述があるとされ、文禄3年(1594年)には、目の病を理由に、書状に花押(かおう)ではなく印判(いんばん)を使うと、直江兼続(なおえかねつぐ)に伝えています。ハンセン病だったとする話が広く知られていますが、病名は確定していません。関ヶ原のころには、輿(こし)に乗って指揮をとったとされ、顔を白い布で覆っていたとも伝わります。目が見えなくなっていたとする説もあります。
【三成との友情】
吉継と三成は、ともに秀吉に仕えた同世代の仲間で、深い信頼で結ばれていたと伝えられます。有名な逸話に、茶会で茶碗を回し飲みしたとき、吉継が口をつけた茶碗を皆が避けるなか、三成だけが平気で飲み干した、という話があります。ただし、この話は同時代の史料には見えず、後の時代に広まった話とされています。
【関ヶ原への道】
慶長5年(1600年)、吉継は徳川家康の会津攻めに加わるつもりで、美濃(みの)の垂井(たるい)まで進んでいたとされます。そこで三成が家康と戦う考えを持っていると知り、勝ち目は薄いと止めたと伝えられます。しかし三成の決意は固く、吉継は何日か考えたうえで、西軍に加わったと言われています。
【関ヶ原の戦いと最期】
関ヶ原の戦いで、吉継は関ヶ原の西側の藤川台(ふじかわだい)付近に陣を置いたとされます。小早川秀秋(こばやかわひであき)が東軍に寝返る可能性に備え、その攻撃をいったんは押し返したと伝えられます。しかし、脇坂安治(わきざかやすはる)らの隊も東軍に寝返り、大谷隊は包囲されて崩れました。慶長5年9月15日(1600年10月21日)、吉継は家臣の湯浅五助(ゆあさごすけ)の介錯(かいしゃく)で自害したとされます。最期の様子には、輿の上で首を討たせたとする記録や、馬上で自害したとする伝えなどがあります。享年は42とされてきましたが、生年を1565年とすると36になります。
【首を隠した話】
吉継は、敵に首を見つけられないよう、五助に埋めるよう命じていたと伝えられます。五助は首を山中に埋めましたが、のちに藤堂高刑(とうどうたかのり)に見つかり、自分の首を差し出す代わりに、埋めた場所を秘密にしてほしいと頼んだとされます。藤堂は、この願いを受け入れ、場所を明かさなかったと伝えられます。
【ゆかりの地】
岐阜県関ヶ原町には、吉継の墓があり、湯浅五助の墓と並んで建っています。平塚為広(ひらつかためひろ)の碑から山道を15分ほど登った所にあり、墓碑には「大谷吉隆」と刻まれています。福井県敦賀市の永賞寺は、吉継ゆかりの寺とされ、境内に吉継の供養塔があると伝えられます。
ゆかりの神社・寺・城1 件