公家平安時代
小野篁
おののたかむら
802 〜 852

別名・通称
篁、野相公、野宰相、夜の閻魔大王の補佐官
平安時代のはじめの貴族・文人(802〜852)。漢詩や和歌にすぐれ、参議まで昇った。遣唐副使の乗船を拒んで隠岐に流されたが、のちに許された。昼は朝廷、夜は閻魔大王の裁きを手伝ったという伝説でも知られ、京都の六道珍皇寺に「冥途通いの井戸」が伝わる。
生涯・逸話
【どんな人物か】
小野篁(おののたかむら)は、平安時代のはじめに活躍した貴族で、漢詩(かんし)や和歌にすぐれた文人である。のちに参議(さんぎ、国の政治を話し合う高官)まで昇った。
延暦21年(802)に、参議の小野岑守(おののみねもり)の子として生まれた。
一方で、「昼は朝廷で働き、夜は閻魔大王(えんまだいおう)の裁きを手伝った」という不思議な伝説でも知られている。
【遣唐使と隠岐への流罪】
承和元年(834)、篁は遣唐使(けんとうし)の副使(ふくし、大使の補佐役)に任じられた。
出航は何度か失敗し、承和5年(838)には、大使の藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の船が傷んだため、篁が乗る予定の船と取りかえることになった。篁はこれに抗議して、乗船を拒んだ。
さらに世を批判する詩を作ったとされ、嵯峨上皇(さがじょうこう)の怒りを買って官位を取り上げられ、隠岐(おき、今の島根県の離島)に流された。
2年後の承和7年(840)、罪をゆるされて都にもどった。
【百人一首の歌】
隠岐へ向かうときの歌が、小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)の11番に選ばれている。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟」
海原のはるか多くの島々をめざして舟を漕ぎ出したと、都の人に伝えておくれ、漁師の釣り舟よ、という意味である。流される舟出の孤独と、都の人を思う気持ちが込められている。
【閻魔大王の伝説】
篁は、京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の裏にある井戸から、夜ごとにあの世へ通い、閻魔大王のもとで死者の裁きを手伝ったと伝えられる。この井戸は「冥途通いの井戸(めいどかよいのいど)」とよばれ、特別な日にだけ公開される。
あの世からの帰りに使った井戸とされる「黄泉がえりの井戸(よみがえりのいど)」は、2011年に寺の隣の土地で見つかった。
六道珍皇寺では、お盆の前の8月7日から10日に「六道まいり」が行われ、先祖の霊を迎える人々が訪れる。
【晩年】
仁寿2年(852)12月22日に亡くなった。数え年で51歳だった。
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