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武将幕末・明治

大隈重信

おおくましげのぶ

1838 〜 1922

武将「大隈重信」(幕末・明治)

別名・通称

重信、大隈侯、八太郎

大隈重信(1838〜1922年)は、佐賀藩出身の政治家で、早稲田大学の前身である東京専門学校を創立した教育者。明治政府で参議・大蔵卿・外務大臣などを務め、内閣総理大臣にも2度就いた。
生涯・逸話
大隈重信は、佐賀藩(現在の佐賀県)出身の政治家であり、教育者である。明治政府の中心で働いたのち、政党をつくり、学校を開いた。内閣総理大臣も2度務めた。 【生まれと学び】 天保9年(1838)2月16日、肥前国(ひぜんのくに)佐賀の城下に、佐賀藩士・大隈信保(のぶやす)の子として生まれた。父は砲術長(ほうじゅつちょう、大砲を扱う役の長)を務めた。幼名は八太郎(はちたろう)である。藩校の弘道館(こうどうかん)で学び、国学者の枝吉神陽(えだよししんよう)にも学んだ。のち長崎で、宣教師フルベッキから英語を学んだ。 【明治政府で】 明治政府では、明治3年(1870)に参議(さんぎ、政府の重要な政策を決める役)となった。明治6年(1873)には大蔵卿(おおくらきょう、財政を担当する大蔵省の長官)に就き、財政を受け持った。明治11年(1878)には地租改正局(ちそかいせいきょく)の総裁を兼ね、地租改正(土地にかかる税の仕組みを改めた改革)にかかわった。 【政変と学校づくり】 明治14年(1881)、参議を辞めて政府を去った。これを明治十四年の政変という。翌明治15年(1882)3月に立憲改進党(りっけんかいしんとう)を結成して総裁となり、同年9月に東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう)を創立した。これがのちの早稲田大学である。 【外務大臣と襲撃事件】 明治21年(1888)、第1次伊藤内閣の外務大臣となり、黒田内閣でも続けて、条約改正(外国と結んだ不平等な条約を改める交渉)に取り組んだ。明治22年(1889)、玄洋社(げんようしゃ)の社員・来島恒喜(くるしまつねき)に爆弾を投げつけられ、右脚を失った。のちに第2次松方内閣でも外務大臣を務めた。 【内閣総理大臣として】 明治31年(1898)6月に最初の内閣(隈板内閣、わいはんないかく)をつくり、同年11月まで務めた。第8代の首相である。大正3年(1914)4月には2度目の内閣をつくり、大正5年(1916)10月まで務めた。第17代の首相である。 【晩年とゆかりの地】 大正11年(1922)1月10日、東京で亡くなった。享年85である。墓は東京都文京区の護国寺(ごこくじ)にある。生まれ育った家は大隈重信旧宅(佐賀市水ケ江)として国の史跡に指定され(昭和40年)、隣の大隈重信記念館には義足などが展示されている。