武将幕末
沖田総司
おきたそうじ
1842 〜 1868

別名・通称
総司、沖田春政、新選組一番隊組長、天才剣士
幕末の新選組の隊士(1842年または1844年〜1868年)。陸奥白河藩士の子で、江戸の試衛館で天然理心流を学び、のち塾頭を務めた。京都では新選組の一番隊の組長となり、池田屋事件にも加わった。肺の病のため、慶応4年(1868)に江戸で亡くなった。
生涯・逸話
沖田総司(おきたそうじ)は、幕末の京都で活動した新選組(しんせんぐみ)の隊士で、病気のため若くして亡くなりました。剣の腕で知られた人物として、いまも小説やドラマに数多く登場します。実名は房良(ふさよし)と伝わります。
【生い立ち】
陸奥(むつ)の白河藩(しらかわはん、福島県)の藩士の子として生まれました。父は、江戸に詰めていた藩士の沖田勝次郎(かつじろう)とされます。生まれた年は、1842年と1844年の両説があり、資料により異なります。
江戸で、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場・試衛館(しえいかん)に入り、近藤周助(こんどうしゅうすけ)の内弟子になったといいます。のちに塾頭(じゅくとう)を務めました。のちに新選組の局長となる近藤勇(こんどういさみ)とは、この道場でつながりができました。
【新選組の隊士として】
文久3年(1863)ごろ、幕府が集めた浪士の一団が、京都に上りました。これがのちに新選組となり、総司もその一員として京都で働きました。役職は、副長助勤(ふくちょうじょきん)をへて、のち一番隊の組長となったと伝わります。
元治元年(1864)6月5日の池田屋事件(いけだやじけん)では、新選組が京都の池田屋にいた志士たちを襲いました。総司も活躍したと辞典に書かれています。戦いの中で倒れたと伝わりますが、血を吐いた(喀血、かっけつ)という話は、確かではないという指摘もあります。
【病と最期】
肺の病(結核とされる)を患い、病状が悪くなって江戸へ戻りました。慶応4年(1868)5月30日に亡くなりました。墓は、東京都港区元麻布(もとあざぶ)の専称寺(せんしょうじ)にあります。
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