武将戦国時代
直江兼続
なおえかねつぐ
1560 〜 1620

別名・通称
兼続、直江山城守、樋口与六、重光
生涯・逸話
直江兼続を理解する鍵は、主君・上杉景勝を支える家老として、戦いの場面だけでなく、敗れたあとの立て直しまで担ったことにある。
【生まれと直江家の継承】
永禄3年(1560)、越後国魚沼郡(現在の新潟県南魚沼市や湯沢町のあたり)に生まれたとされる。出生地には諸説がある。
父は樋口兼豊(ひぐちかねとよ)で、はじめは樋口与六(よろく)と名乗ったとされる。
仕えたのは上杉景勝(うえすぎかげかつ)である。景勝は上杉謙信の甥にあたり、のちに謙信の養子となった人である。
天正9年(1581)ごろ、越後の与板城(よいたじょう)の城主・直江信綱が殺されると、景勝の命により、信綱の妻・お船の婿となって直江家を継いだ。
天正11年(1583)ごろから山城守(やましろのかみ)を名乗り、天正14年(1586)には従五位下(じゅごいのげ)に叙せられた。
慶長3年(1598)、上杉家は越後から会津(現在の福島県)へ移った。領地は120万石とされる。
【直江状と会津征伐】
慶長5年(1600)、越後の領主・堀秀治が、景勝に謀反(むほん)の動きがあると家康に訴えた。家康は景勝に上洛(京へ上ること)を求めたが、景勝は応じなかった。
家康の意を受けた僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)が上洛をすすめる手紙を送り、これに対して4月14日付で兼続が書いた返事が「直江状」とされる。
この書状で兼続は、謀反の噂を否定し、武具をそろえ道を整えるのも領国を治めるうえで当然だと述べたとされる。そして、上洛の条件として、讒言(ざんげん、いつわりを告げ口すること)をした者を調べることを求めたと伝わる。
家康はこれに怒り、会津へ向かう決意を固めた(会津征伐)とされる。
ただし、直江状の原本は見つかっておらず、残るのは写しだけである。最古の写本は寛永17年(1640)成立の南部本とされる。
後世に手が加わったとみる研究者もいて、本文の真偽に定説はない。一方で、兼続が承兌に返書を送り、家康がそれに怒ったことは、確からしいと考えられている。
【関ヶ原の戦いの年】
慶長5年7月、家康が会津へ向かう途中、下野の小山(現在の栃木県小山市)で、石田三成の挙兵を知った。家康は会津征伐を中止して西へ引き返し、関ヶ原の戦いへとつながっていった。
上杉軍は、出羽の最上義光(もがみよしあき)を攻める方針に切り替えた。兼続は総大将として山形へ攻め入り、長谷堂城(はせどうじょう)を攻めたが、約2週間かけても攻め落とせなかった。
関ヶ原で西軍が敗れた知らせが届くと、上杉軍は撤退し、米沢へ引き揚げた。
【米沢30万石の立て直し】
慶長6年(1601)、景勝は上洛して家康に謝罪し、上杉家は会津から出羽の米沢30万石へ移された。領地は大きく減ったが、兼続は、古くからの家臣を一人も去らせなかったとされる。
兼続が進めたとされる主な事業は、次のとおりである。
最上川の上流に巨石を積んだ堤防を築いた。「直江石堤」と呼ばれ、長さは約3キロメートルである。
新田開発を進め、表向きの30万石に対し、実際には51万石になるまで開発したと言われる。
織物の原料になる青苧(あおそ)の増産をすすめ、織り上げた布を京で売って利益を得た。
【学問と書物】
兼続は学問を重んじ、書物を集めた。中国の宋の時代の版による『史記』などを所蔵し、国宝に指定されたものもある。
慶長12年(1607)には、活字を使って『文選(もんぜん)』を刊行した。これは「直江版」と呼ばれる。
米沢には学問所として禅林文庫を設けた。のちの藩校・興譲館(こうじょうかん)につながるとされる。
【愛の兜】
兼続の兜は、前立て(正面の飾り)に「愛」の字を掲げたもので知られる。米沢市の上杉神社稽照殿(けいしょうでん)に伝わる。
「愛」の由来には、愛染明王(あいぜんみょうおう)や愛宕権現(あたごごんげん)に結びつける説、仁愛や愛民の心を表すとする説などがあり、定かではない。愛宕神社への戦勝祈願に由来する説が有力とされる。
また、この兜は兼続が自分で作らせたものではなく、謙信または景勝から与えられたものとする考えもある。
【最期】
元和5年12月19日(西暦では1620年1月23日)、江戸(現在の東京)の上杉家の屋敷で病没した。数え年で60歳だった。
墓は米沢の林泉寺(りんせんじ)にあり、妻・お船の墓と並んで建つ。墓は「万年塔」と呼ばれる形で、兼続が考えたものと伝わる。
【ゆかりの地】
林泉寺(山形県米沢市)は、米沢藩上杉家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の供養をする寺)である。境内に、兼続とお船の墓がある。
上杉神社稽照殿(山形県米沢市)は、上杉神社の宝物館である。「愛」の字を掲げた兼続の甲冑が伝わる。