武将幕末・明治
永倉新八
ながくらしんぱち
1839 〜 1915

別名・通称
新八、長倉新八、杉村義衛、杉村治備
幕末から大正時代の剣客(1839〜1915)。松前藩の家に生まれ、神道無念流の使い手として新選組に加わり、二番隊組長をつとめました。
戊辰戦争のさなかに近藤勇と別れ、明治以後は杉村姓を名乗って北海道で剣術を教えました。
晩年に語った思い出は『新撰組顛末記』として残り、新選組の姿を伝える貴重な証言となっています。
生涯・逸話
新選組の幹部の多くが幕末に命を落とすなかで、永倉新八は大正時代まで生き抜き、仲間たちの姿を語り残した。今日私たちが知る新選組の物語には、この人の証言が少なからず生きている。
【松前藩の家に生まれて】
天保10年(1839)、江戸に住んで幕府との連絡役をつとめる松前藩(まつまえはん)の家に生まれた。本来の名字は「長倉」で、次男だったが、兄を早くに亡くしたため跡継ぎとして育てられた。
8歳で神道無念流(しんどうむねんりゅう)の剣術に入門する。19歳のとき藩邸を出て道場に住み込み、このときから名字を「永倉」に改めた。
やがて天然理心流の道場・試衛館(しえいかん)で近藤勇らと出会い、意気投合する。
【新選組の剣】
文久3年(1863)、新選組の結成に加わり、副長助勤(ふくちょうじょきん)をつとめた。
元治元年(1864)の池田屋事件では、近藤勇・沖田総司とともに斬り込み、死闘を繰り広げた。
慶応元年(1865)には二番隊の組長となり、剣術を教える撃剣師範(げきけんしはん)も兼ねた。
【近藤との別れ】
戊辰戦争のさなか、永倉は近藤勇と別れ、仲間とともに靖共隊(せいきょうたい、靖兵隊とも)をつくって会津で戦おうとした。
しかし会津藩が降伏すると、永倉は江戸に戻って身をひそめた。
【杉村姓を名乗って】
その後、松前藩士に戻り、藩医・杉村松柏(すぎむらしょうはく)の婿養子となって杉村姓を名乗った。
明治15年(1882)からは、北海道の樺戸(かばと)集治監で剣術の師範をつとめている。
【仲間を弔う】
明治9年(1876)、永倉は近藤勇が亡くなった板橋に墓を建てるため奔走し、「新選組殉難者慰霊墓」を完成させた。墓の正面には近藤勇と土方歳三の名が刻まれ、裏には発起人として永倉の名が残る。
【語り残す】
晩年は小樽で暮らし、剣道を教えた。70代のころ、小樽新聞の取材に応じて新選組時代の思い出を語り、それが連載記事となって、のちに『新撰組顛末記(しんせんぐみてんまつき)』としてまとめられた。
大正4年(1915)、77歳で亡くなった。
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