僧侶鎌倉時代
明恵上人
みょうえしょうにん
1173 〜 1232

別名・通称
明恵、高弁、華厳宗中興の祖、栂尾の上人
生涯・逸話
明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の僧で、諱(いみな)は高弁(こうべん)といいます。華厳宗を学び、京都の高山寺を再興したことで知られます。明恵上人、または栂尾上人とも呼ばれます。
【生い立ち】
承安3年(1173)、紀伊国(和歌山県)に、平重国の子として生まれました。母は湯浅宗重の娘とされます。幼いころに両親を失い、叔父の上覚を頼って京都の神護寺に入りました。16歳のとき、文治4年(1188)に上覚のもとで出家したとされます。のちに奈良の東大寺の戒壇院で受戒し、華厳宗や真言密教を学びました。
【高山寺の再興】
建永元年(1206)、後鳥羽上皇から栂尾(京都市右京区)の地を与えられ、古い寺を再興して高山寺と名づけました。高山寺は、1994年に世界遺産「古都京都の文化財」の一つとして登録されています。寺には、国宝の絵巻「鳥獣戯画」が伝わっています。
【学問と信仰】
華厳宗を学ぶ一方で、栄西に禅を学んだとされ、座禅にも励みました。建暦2年(1212)ごろには、法然の専修念仏を批判する『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著しました。承久の乱のあとには、女性たちを助け、尼寺の善妙寺を建てたとされます。
【夢記】
明恵は、約40年にわたって自分の見た夢を書き残しました。これを『夢記(ゆめのき)』といいます。夢の内容を細かく記録した資料として、現在も注目されています。
【茶】
栄西から贈られた茶の種を、栂尾に植えたと伝わります。そこから、高山寺には「日本最古の茶園」といわれる茶畑が残っています。栂尾でつくられた茶は、「本茶」と呼ばれました。
寛喜4年(1232)に、60歳(数え年)で亡くなりました。
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