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伝説の英雄平安時代

武蔵坊弁慶

むさしぼうべんけい

? 〜 1189

伝説の英雄「武蔵坊弁慶」(平安時代)

別名・通称

弁慶、武蔵坊

平安末期の僧(生年不詳〜1189)。源義経の従者として『吾妻鏡』に名が見える。熊野別当の子とも伝わり、清水観音や五条大橋での義経との出会い、歌舞伎『勧進帳』の安宅の関、衣川での立ち往生など、多くの伝説で語られる。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、実在はしたとみられるものの、その事績の多くが『義経記』などの物語や、能・歌舞伎で作られてきた、という点にある。 『吾妻鏡』の文治元年(1185)11月の記事に、源義経に従う人物として「弁慶法師」などの形で名が見える。ただし、それ以外の経歴は確かめられていない。 生年は分からない。熊野別当の子とも伝わるが、父の名などは資料により異なる。幼名は鬼若(鬼若丸)とされ、比叡山の西塔で学んだのち、「武蔵坊弁慶」と名のったと伝わる。 『義経記』によると、弁慶は京都の清水観音の境内で、太刀を奪おうとして義経に敗れ、家来になった。のちには、千本の太刀を集めようとして五条大橋で義経に出会った、という話として広まった。 義経が兄の源頼朝に追われて京都を出たあとも、弁慶は付き従い、奥州をめざしたとされる。この道中の話を題材にしたのが、能『安宅』と、これをもとにした歌舞伎『勧進帳』である。『勧進帳』は天保11年(1840)に江戸で初演された。山伏に姿を変えた義経主従が、安宅の関で富樫左衛門に止められ、弁慶が白紙の巻物を勧進帳として読み上げ、疑われた義経を杖で打って関を通る、という筋である。これは創作で、史実として確かめられているわけではない。 文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、藤原泰衡の軍が平泉の衣川館にいた義経を攻めた際、弁慶も戦って亡くなったとされる。矢を受けながら立ったまま息絶えた「弁慶の立ち往生」は、後の時代の伝説とされる。 岩手県平泉町の中尊寺の表参道・月見坂の入口には、武蔵坊弁慶の墓碑がある。亡骸が松の根元に埋められたと伝わり、後世に碑が立てられた。