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武将戦国時代

毛利輝元

もうりてるもと

1553 〜 1625

武将「毛利輝元」(戦国時代)

別名・通称

幸鶴丸、少輔太郎

毛利元就の孫(1553〜1625)。11歳で家督を継ぎ、豊臣政権の五大老の一人となった。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に推され、戦後は周防・長門の2か国、約37万石に減封。萩に城を築いて新たな本拠とした。
生涯・逸話
毛利輝元(もうりてるもと)は、祖父・毛利元就(もとなり)が築いた大きな領国を受け継ぎ、織田・豊臣・徳川と天下人が入れ替わる時代を生き抜いた武将です。 関ヶ原の戦いのあとは領地が大きく減りましたが、毛利家を存続させ、萩(はぎ)に新しい本拠を築きました。 【生い立ち】 天文22年(1553)1月22日、安芸国(あきのくに、広島県西部)の吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)で生まれたとされます。 幼名は幸鶴丸(こうづるまる)です。 父は毛利隆元(たかもと)、祖父は毛利元就です。 永禄6年(1563)8月、父・隆元が急に亡くなり、輝元は11歳で家督を継ぎました。 幼い当主を支えたのは、祖父の元就と、叔父の吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)です。 この二人の叔父は「毛利両川(もうりりょうせん)」と呼ばれます。 重臣の福原貞俊(さだとし)・口羽通良(くちばみちよし)を加えた4人が、政務も補佐しました。 永禄8年(1565)2月16日に元服(げんぷく、成人の儀式)し、将軍・足利義輝(あしかがよしてる)から「輝」の字をもらって輝元と名乗りました。 元亀2年(1571)に元就が亡くなると、輝元は自分で政治を行うようになります。 【信長・秀吉との関わり】 毛利家は、はじめ織田信長(おだのぶなが)と同盟を結んでいました。 しかし天正4年(1576)、京を追われた足利義昭(よしあき)を保護して、織田氏との同盟をやめました。 天正10年(1582)6月、本能寺の変が起こると、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)で羽柴秀吉(はしばひでよし)と講和します。 その後、秀吉と国境を定めて和睦し、四国攻めや九州攻めでは先陣を任されたとされます。 天正16年(1588)に参議、慶長2年(1597)に従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)に任じられました。 豊臣政権では、徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家とともに五大老(ごたいろう)の一人となり、秀吉の死後の政治を委ねられました。 このころの毛利家の領国は、中国地方の大半にわたる約112万石でした。 【関ヶ原の戦い】 慶長5年(1600)7月、輝元は石田三成(いしだみつなり)の呼びかけに応じて西軍に加わりました。 大坂城に入り、西軍の総大将に推されます。 養子の毛利秀元(ひでもと)を大将とする毛利勢は関ヶ原へ向かい、南宮山(なんぐうさん)に布陣しました。 ところが、一族の吉川広家(きっかわひろいえ)は、東軍に内通していました。 毛利勢が戦わないことを条件に、領地を守る約束を取り付けていたのです。 この話は、輝元の知らないところで進んだとされます。 9月15日の本戦で、毛利勢は動かないまま、西軍は敗れました。 戦後、輝元は家康に説得されて大坂城を出ました。 しかし、輝元が総大将として積極的に動いていたことが明らかになり、家康は約束を破って毛利家を取りつぶそうとしました。 広家らの尽力で取りつぶしは免れましたが、領地は周防(すおう)・長門(ながと)の2か国、約37万石に減らされました。 【萩へ】 慶長9年(1604)から、輝元は日本海に面した萩の指月山(しづきやま)に城を築き始めました。 工事は約4年かかったと伝わります。 輝元は出家したあとも、実質的な当主として政務を取りました。 元和9年(1623)9月、正式に嫡子の秀就(ひでなり)へ家督を譲りました。 寛永2年(1625)4月27日、萩で亡くなりました。数え年で73歳でした。 【その後の長州藩】 輝元が築いた萩を本拠とする藩は、萩藩、または長州藩と呼ばれます。 幕末には、この藩から吉田松陰(よしだしょういん)、高杉晋作(たかすぎしんさく)、木戸孝允(きどたかよし)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らが出て、明治維新の動きを支えました。 【ゆかりの地】 山口県萩市堀内にある萩城跡(指月公園)は、輝元が築いた城の跡です。 公園内の志都岐山神社(しづきやまじんじゃ)には、毛利元就・隆元・輝元らがまつられています。 萩藩主毛利家墓所(旧天樹院墓所)には、輝元が眠っています。