武将戦国時代
毛利隆元
もうりたかもと
1523 〜 1563

別名・通称
備中守(官途)、大膳大夫(官途)
生涯・逸話
毛利隆元は、毛利元就の長男として生まれ、父が大きく広げていく勢力のもとで、毛利家の当主をつとめた人物です。
【生い立ちと人質時代】
大永3年(1523)、安芸国(あきのくに・今の広島県)の多治比猿掛城(たじひさるかけじょう)で生まれました。元就の嫡男(ちゃくなん・あとつぎ)で、吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、同じ母から生まれた弟です。
天文6年(1537)ごろ、人質として周防国(すおうのくに)山口の大内義隆(おおうちよしたか)のもとへ送られました。ここで義隆から名の一字をもらい、隆元と名乗ります。のちに安芸へ戻りました。
妻は、義隆の養女で、内藤興盛(ないとうおきもり)の娘の尾崎局(おざきのつぼね)です。隆元は尾崎局を大切にし、生涯、側室を持たなかったと伝わります。子に、のちに毛利家を継ぐ輝元(てるもと)がいます。
【家督を継ぐ】
天文15年(1546)ごろ、父の元就が隠居を表明し、隆元が毛利家の当主(第13代)となりました。家督を継いだ年は、天文16年(1547)ごろとする資料もあります。
ただし、元就は隠居したあとも実権を握り続けました。弘治3年(1557)には、元就が家督を完全に譲ろうとしましたが、隆元は断ったと伝わります。
天文20年(1551)に大内義隆が陶晴賢(すえはるかた)によって自害に追い込まれたとき、隆元は陶氏と戦うことを主張しましたが、元就は戦力の差から慎重だったとされます。のちに弘治元年(1555)の厳島の戦い(いつくしまのたたかい)で元就が晴賢を破り、毛利氏は大内氏の領国の大部分を手に入れました。
【三子教訓状】
弘治3年(1557)11月、元就は隆元、元春、隆景の三人に宛てて、14か条の書状『三子教訓状(さんしきょうくんじょう)』を書きました。三人が力を合わせて毛利の家を支えるよう諭した内容で、隆元を主君として、弟の元春と隆景がそれを支える形が示されています。
隆元が元春と隆景の不仲を元就に訴えたことが、この書状を書くきっかけになったとも言われます。
三本の矢の話は、この書状には出てきません。隆元は元就より8年早く亡くなっているため、元就が最期に三人の子へ教えを説いたという逸話は、そのままの形では史実とみられていません。
【急死】
永禄3年(1560)に大膳大夫(だいぜんのだいぶ)・安芸守護、永禄5年(1562)に従四位下となった隆元は、永禄6年(1563)、出雲国(いずものくに)の尼子氏(あまごし)攻めに向かう途中にありました。
8月3日の夜、毛利氏に従う和智誠春(わちまさはる)の宿所でもてなしを受け、宿に戻ったあとに急病となり、翌4日の朝に亡くなったとされます。場所は安芸国の佐々部(ささべ・今の安芸高田市高宮町)です。享年41(数え年)でした。
死因には諸説があります。毒殺された可能性が高いとする説と、食あたりとする説があります。毒殺説の根拠として、永禄10年(1567)に隆元の側近の赤川元保(あかがわもとやす)が、永禄12年(1569)にもてなした和智誠春が、元就の意向で処刑されたことが挙げられます。
隆元の子の幸鶴丸(こうつるまる・のちの輝元)が家督を継ぎましたが、まだ11歳だったため、元就が後見して政治と軍事を行いました。
【人柄】
隆元は、温厚で誠実で、絵を描くことや仏典を書き写すことを好んだ教養人とされます。内政や財政にくわしく、商人や国人(こくじん・地元の武士)から信頼されたとも伝わります。
【墓所とゆかりの地】
墓所とされる場所は、広島県安芸高田市吉田町の大通院跡(だいつういんあと)、山口市宮野の常栄寺(じょうえいじ)、安芸高田市高宮町の式敷(しきじき)地区にある火葬場跡の墓碑などがあります。
山口市の広報紙によると、常栄寺は、もとは安芸国にあった隆元の菩提寺(ぼだいじ)が、毛利氏の防長二か国への減封にともなって、山口に移ってきたものです。
ゆかりの神社・寺・城1 件