学者・文化人明治・大正
森鴎外
もりおうがい
1862 〜 1922

別名・通称
鴎外、森鷗外、鷗外、森林太郎
明治・大正期の軍医・小説家(1862-1922)。石見国津和野(現在の島根県津和野町)の藩医の家に生まれ、東京で医学を学んで陸軍軍医となり、明治17年(1884)から約4年間ドイツに留学した。帰国後は『舞姫』(1890年)、『雁』『阿部一族』『高瀬舟』などを書き、陸軍省医務局長も務めた。亡くなる直前の遺言では、石見人森林太郎として死にたいと記した。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】
森鷗外(もり おうがい)は、陸軍の軍医として働きながら、小説・翻訳・評論を書き続けた人です。本名は森林太郎(もり りんたろう)で、作家としては鷗外の名で知られます。「鷗」は「鴎」と書かれることも多い字です。軍人・役人としての顔と、書き手としての顔の両方を持ち、最後の遺言では、肩書きを離れて「森林太郎」として死にたいと記しました。
【生まれと上京】
文久2年1月19日(1862年2月17日)、石見国(いわみのくに)津和野(つわの、現在の島根県津和野町)で、津和野藩主の亀井家(かめいけ)に仕える典医(てんい、藩主に仕える医者)の家の長男として生まれました。父は森静泰(しずやす、のち静男〈しずお〉)です。藩校の養老館(ようろうかん)で学び、明治5年(1872)に父とともに上京しました。
東京では東京医学校(のちの東京大学医学部)の予科に入りました。入学を明治6年(1873)とする資料と明治7年(1874)とする資料があり、入学のときに年齢を実際より多く申告したとも伝えられます。明治14年(1881)7月に本科を卒業しました。19歳でした。
【陸軍軍医として】
明治14年(1881)12月に陸軍軍医副(ぐんいふく)となりました。明治17年(1884)6月にドイツ留学を命じられ、10月にベルリンに着きました。ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンなどに滞在して衛生学(えいせいがく、健康や病気の予防を研究する学問)などを学び、明治21年(1888)9月に帰国しました。
明治40年(1907)には陸軍軍医総監(ぐんいそうかん)となり、陸軍省の医務局長(いむきょくちょう)も務めました。大正5年(1916)4月に陸軍を退き、その後は帝室博物館(ていしつはくぶつかん)の総長と図書頭(ずしょのかみ)を務めたほか、帝国美術院(ていこくびじゅついん)の初代院長にもなりました。就任の時期は資料によって書き方が違います。
【『舞姫』と主な作品】
帰国後の明治23年(1890)1月に、雑誌『国民之友』(こくみんのとも)に小説『舞姫』(まいひめ)を発表しました。帰国直後の明治21年(1888)に来日したドイツ人女性が、この作品の素材の一つになったとされます。女性の名前にはエリーゼ・ヴァイゲルトという説をはじめ複数の説があり、確定していません。
このほかの主な作品と発表の時期は、次のとおりです。『雁』(がん)は明治44年(1911)9月から大正2年(1913)5月まで雑誌『スバル』に連載されました。『阿部一族』(あべいちぞく)は大正2年(1913)1月、『山椒大夫』(さんしょうだゆう)は大正4年(1915)1月、『高瀬舟』(たかせぶね)は大正5年(1916)1月、『渋江抽斎』(しぶえちゅうさい)は大正5年(1916)1月から5月に発表されました。アンデルセンの『即興詩人』(そっきょうしじん)の翻訳も手がけています。
【千駄木の観潮楼】
明治25年(1892)1月に駒込千駄木町(こまごめせんだぎちょう)21番地へ移り、2階を増築して「観潮楼(かんちょうろう)」と名づけました。観潮楼は鷗外の文学活動の中心の場となり、大正11年(1922)7月9日、この地で亡くなりました。明治23年に住んでいた千駄木町57番地の家には、のちに夏目漱石(なつめ そうせき)が入ったとされています。
観潮楼は昭和12年(1937)の失火と昭和20年(1945)の戦災で2度焼けましたが、表門の跡の礎石や敷石、銀杏の大木などが残っています。跡地には文京区立森鷗外記念館が建っています。
【遺言と墓】
大正11年(1922)7月9日、腎萎縮(じんいしゅく)と肺結核(はいけっかく)のため亡くなりました。満60歳(数え年で61)です。亡くなる3日前の7月6日に友人に口述筆記してもらった遺言には、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という趣旨が記され、宮内省や陸軍から受けた栄典を取り消すよう求めたとされます。墓には「森林太郎墓」の外は一字も彫らないよう指示したと伝えられます。碑の文字を「森林太郎ノ墓」と書く資料もあります。
墓所は東京都三鷹市の禅林寺(ぜんりんじ)です。はじめ向島の弘福寺(こうふくじ)に葬られ、昭和2年(1927)10月に禅林寺へ移されました。同じ境内の、鷗外の墓の向かいには太宰治(だざい おさむ)の墓があります。出生地の津和野にある永明寺(ようめいじ)にも、分骨された墓があります。
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