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武将戦国・江戸

毛利勝永

もうりかつなが

1577 〜 1615

武将「毛利勝永」(戦国・江戸)

別名・通称

勝永、毛利吉政、森吉政

戦国時代から江戸時代初めの武将(?〜1615)。豊臣秀吉の家臣・毛利勝信の子で、当時の文書には「吉政」と署名しています(安芸の毛利氏とは別の家)。 関ヶ原の戦いで西軍について領地を失い、土佐の山内家に預けられました。 大坂の陣では豊臣方に加わり、夏の陣の天王寺口の戦いで徳川方の部隊を次々に打ち破りました。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】 毛利勝永を理解する鍵は、大坂夏の陣の最終決戦で見せた戦いぶりにある。真田信繁(幸村)の名に隠れがちだが、この日、徳川方の大名を二人討ち取ったのは勝永の隊だった。 なお「勝永」という名は当時の記録には見えず、本人の書いた文書はすべて「吉政」と署名されている。 【秀吉の近臣の家】 天正5年(1577)とも天正6年(1578)ともいわれる年に生まれた。父は豊臣秀吉の近くに仕えた森吉成(のちの毛利勝信)で、秀吉の命で「森」から「毛利」に姓を改めた。中国地方の毛利氏とは別の家である。 九州平定ののち、父が豊前国小倉(いまの北九州市)の領主となり、勝永も領地を与えられた。慶長の役では朝鮮の蔚山(うるさん)城の救援に加わり、戦功をあげている。 【関ヶ原と土佐】 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城攻めに加わった。だが本戦では活躍の場がなく、戦後に領地を取り上げられた。 身柄は加藤清正に、次いで土佐の山内一豊に預けられた。山内家では1000石を与えられ、高知城の北の久万(くま)村で暮らすなど、手厚く遇されたという。 【大坂城へ】 慶長19年(1614)、豊臣秀頼から大坂城に入るよう招かれた。勝永は、大坂の陣に出る土佐藩主・山内忠義を助けに行くと偽り、子の勝家とともに船で土佐を抜け出した。 大坂城では真田信繁・後藤又兵衛らと並ぶ中心の武将の一人となり、「大坂城の五人衆」と呼ばれた。冬の陣では城の西北を守ったが、大きな戦いはなかった。 【天王寺口の戦い】 慶長20年(1615)5月7日、勝永は兵4000を率いて四天王寺の南門前に陣を構えた。 本多忠朝の隊が攻めかかってくると、これを迎え撃って忠朝を討ち取り、さらに小笠原秀政・忠脩(ただなが)父子も討ち取った。続いて榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒らの部隊も次々に打ち破り、家康の本陣を守る部隊を崩していった。 しかし真田隊が崩れると四方から攻められ、勝永は井伊直孝や細川忠興の追撃をしのぎながら、兵をまとめて大坂城へ引き揚げた。 【最期】 翌5月8日、炎に包まれた大坂城で、勝永は秀頼の介錯(かいしゃく)をつとめたのち、子の勝家とともに自害したと伝えられる。 土佐に残された家族のうち、幼い次男は処刑されたが、ほかの身内は許されて土佐に戻されたという。