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武将平安時代

源義朝

みなもとのよしとも

1123 〜 1160

武将「源義朝」(平安時代)

別名・通称

義朝、鎌倉殿の父、左馬頭

平安時代末期の武将(1123年〜1160年)。源頼朝や義経らの父。保元の乱では後白河天皇方で勝利したが、平治の乱で平清盛に敗れた。東国へ向かう途中、尾張国野間で家臣の長田忠致に殺された。
生涯・逸話
源義朝(みなもとのよしとも)は、平安時代末期の武将です。源頼朝や義経らの父として知られます。保元の乱と平治の乱で、武士が政治を動かすきっかけとなる戦いに加わりました。 【生い立ち】 保安4年(1123)、源為義の長男として生まれたとされます。相模国の鎌倉で成長し、のちに東国に勢力を広げました。「上総御曹司(かずさのおんぞうし)」とも呼ばれ、房総とのつながりも指摘されています。仁平3年(1153)に下野守となり、保元の乱のあとには左馬頭(さまのかみ)に任じられました。 正室は、藤原季範の娘の由良御前です。子には、義平、朝長、頼朝、範頼、義経などがいました。 【保元の乱】 保元元年(1156)の保元の乱では、後白河天皇方について戦い、勝利しました。敵方には、父の為義や弟たちがいました。義朝は助命を願ったが許されず、処刑されたとする辞典があります。 【平治の乱】 平治元年(1159)、藤原信頼と結んで挙兵しましたが、平清盛の軍に敗れました。義朝は、京都を出て東国へ向かいます。 【最期】 敗走の途中、尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)で、家臣の長田忠致に裏切られ、入浴中に殺されました。家臣の鎌田正清も殺されたと伝わります。38歳でした。 「せめて木太刀が一本あれば」という無念の言葉が、伝承として残っています。野間の大御堂寺(野間大坊)には、義朝の墓があり、木太刀を供える風習があります。境内には、義朝の首を洗ったとされる「血の池」もあります。