武将平安時代
源義家
みなもとのよしいえ
1039 〜 1106

別名・通称
義家、八幡太郎、源頼義の長男、鎌倉八幡太郎
生涯・逸話
平安時代後期の武将。京都の石清水八幡宮で元服したことから、「八幡太郎」と呼ばれた。
長暦3年(1039)、河内源氏の源頼義の長男として生まれた。母は平直方の娘とされる。石清水八幡宮での元服は、7歳の春だったとする辞典もある。
前九年の役(1051〜1062)では父の頼義に従って戦い、安倍貞任らと戦った。戦功により、康平6年(1063)には出羽守に任じられたとされる。
永保3年(1083)、陸奥守兼鎮守府将軍として東北に下った。東北で起きた清原氏の内紛(後三年の役、1083〜1087)に関わり、清衡を助けて家衡らと戦ったとされる。朝廷はこの戦いを義家の私闘とみなして恩賞を出さなかったため、義家は私財で戦った武士たちに報いたと伝わる。こうした対応が東国の武士たちの信望を集め、源氏と武士の主従関係を強めたと考えられている。
承徳2年(1098)には正四位下となり、院の昇殿を許された。一方、朝廷は義家の力が大きくなりすぎることを警戒したのか、寛治5年(1091)ごろ、義家への荘園の寄進を禁じた(1092年とする辞典もある)。
奥州へ向かう途中、空を飛ぶ雁の列の乱れから敵の伏兵に気づいたという話が、『奥州後三年記』に基づく話として伝わる。また、勿来関で詠んだと伝わる歌が、『千載和歌集』に収められている。
東京都新宿区の穴八幡宮は、社伝では康平5年(1062)に義家が八幡神を祀ったのが起源とされる。茨城県の石岡市にも、義家が通ったという伝承にちなむ地名が残っている。子孫には、源頼朝や足利尊氏がいる。
嘉承元年(1106)、68歳(数え年)で亡くなった。