学者・文化人江戸時代
松尾芭蕉
まつおばしょう
1644 〜 1694

別名・通称
芭蕉、松尾宗房、桃青、俳聖
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、言葉遊びの要素が強かった俳諧を、旅と人生を見つめる芸術へ高めようとした、その歩みにあります。
【生い立ち】
1644年(寛永21年、正保元年とも表記されます)、伊賀上野(いがうえの、現在の三重県伊賀市)で生まれました。幼名は金作(きんさく)、のちに宗房(むねふさ)と名乗ります。19歳のころ、藤堂新七郎家(とうどうしんしちろうけ)に仕え、当主の子の藤堂良忠(とうどうよしただ、俳号は蝉吟〈せんぎん〉)に従って俳諧を学びました。1666年に良忠が25歳で亡くなると、仕官の道は閉ざされ、芭蕉は俳諧の道を究める決意を固めたといいます。
【江戸へ】
1672年、29歳で江戸に出ました。当初は桃青(とうせい)の号を用い、30代半ばには俳諧の師匠(宗匠、そうしょう)として、多くの弟子を持つようになりました。
【芭蕉庵と蕉風】
1680年(延宝8年)、37歳で隅田川の東にある深川に移り住みました。弟子が庭に芭蕉(バショウ)の株を植えたことから、住まいは芭蕉庵と呼ばれ、芭蕉自身の号も「芭蕉」になりました。このころ、仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)に禅を学んだとされます。談林風(だんりんふう)の俳諧から離れ、蕉風(しょうふう)と呼ばれる句風を確立したとされ、晩年には「軽み」(かるみ)を唱えたといわれます。
【旅の人】
1684年(貞享元年)の『野ざらし紀行』をはじめ、1687年の『笈の小文』(おいのこぶみ)の旅、1688年の『更科紀行』(さらしなきこう)など、芭蕉はたびたび旅に出て、紀行文と句を残しました。1688年には須磨寺(すまでら、神戸市)を訪れ、「須磨寺や吹かぬ笛きく木下闇」と詠んでいます。
【『奥の細道』の旅】
1689年(元禄2年)3月27日、門人の曾良(そら)とともに、深川から船で隅田川をさかのぼり、千住(せんじゅ)で上がって旅立ちました。東北から北陸をまわり、約600里(約2400キロメートル)、およそ150日の旅を経て、美濃国(みののくに)の大垣(おおがき)に着きました。旅立ちの際には「行く春や鳥啼き魚の目は泪」と詠んでいます。旅のなかで、平泉(ひらいずみ)では「夏草や兵どもが夢の跡」、立石寺(りっしゃくじ、山形市)では「閑さや岩にしみ入る蝉の声」、最上川(もがみがわ)では「五月雨をあつめて早し最上川」などの句が詠まれました。栃木県大田原市の雲巌寺(うんがんじ)は、禅の師だった仏頂和尚ゆかりの寺で、芭蕉は訪れて「木啄も庵は破らず夏木立」と詠み、境内には句碑があります。
【最期】
1694年(元禄7年)5月に故郷の伊賀上野へ帰ったのち、旅先の大坂で病に倒れました。大坂の御堂筋(みどうすじ)にあった花屋の貸し間で、10月12日に亡くなりました。51歳(数え年)でした。病の床で詠んだ最後の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」です。遺言により、大津の義仲寺(ぎちゅうじ)に葬られました。陰暦10月12日は芭蕉忌(ばしょうき)、時雨忌(しぐれき)とも呼ばれます。
【俳聖と呼ばれて】
遊びの要素が強かった俳諧を、芸術の域まで高めた功労者とされ、「俳聖(はいせい)」と称えられています。