武将戦国時代
松永久秀
まつながひさひで
1510 〜 1577

別名・通称
久秀、松永弾正
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、「三つの悪事をはたらいた悪人」という後世のイメージと、史料からわかる実像が大きくちがうことにあります。
【出自と台頭】
生まれは永正7年(1510)とする資料が多いものの、確かではありません。出身もはっきりせず、阿波(あわ)、山城西岡(やましろにしのおか)、摂津五百住(せっつ・いおずみ、大阪府高槻市付近)などの説があり、摂津説が有力視されています。三好長慶に仕え、文書を扱う右筆(ゆうひつ)として登場したのち、家老として重んじられました。永禄2年(1559)ごろから大和へ進出し、信貴山城を拠点に大和国の支配を進め、永禄5年(1562)ごろには多聞山城(たもんやまじょう)を築いたとされます。
【三つの悪事といわれるもの】
後世、久秀は「将軍を殺した」「主家の三好家を乗っ取った」「東大寺の大仏殿を焼いた」の三つの悪事をしたと語られてきました。この話をまとめたのは江戸時代中期の『常山紀談』(じょうざんきだん)で、近年はどれも確かな根拠が乏しいとされています。
将軍殺しとされるのは永禄8年(1565)の永禄の変(えいろくのへん)です。足利義輝(あしかがよしてる)を襲ったのは、久秀の子・久通(ひさみち)と三好義継(みよしよしつぐ)らで、久秀本人の関与を示す確かな史料は乏しいとされます。三好長慶やその子・義興(よしおき)の死に久秀が関わったという説も、確たる証拠がないと指摘されています。
東大寺の大仏殿は、永禄10年(1567)10月10日、久秀と三好三人衆(みよしさんにんしゅう)が戦う最中に焼けました。『信長公記』(しんちょうこうき)は「松永の云為(うんい)」とし、同時代の『多聞院日記』(たもんいんにっき)は戦いの兵火が原因と記しています。誰が火をつけたのかは、はっきりしていません。
【信長のもとで】
永禄11年(1568)、久秀は織田信長に降伏して従いました。その後、二度背きましたが、一度は許されています。
【最期】
天正5年(1577)、久秀は再び信長に背いて信貴山城にたてこもりました。織田信忠(のぶただ)の軍に攻められ、10月10日に落城し、久秀は自ら命を絶ちました。『信長公記』は、天主に火をかけて焼死したと記しています。享年は数え年で68です。
名物の茶釜・平蜘蛛(ひらぐも)を抱いて「爆死」したという話はよく知られています。しかし爆発の記述は『信長公記』にはなく、江戸時代の書物の脚色が重なって広まった話とされます。平蜘蛛が最期とともに失われたかどうかも、はっきりしません。なお、落城の日が大仏殿の焼けた日と同じ10月10日だったことは、当時から話題になりました。
【ゆかりの地】
久秀が最期を迎えた信貴山城の跡は、奈良県平群町(へぐりちょう)にあります。
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