TabiShiri
日前神宮・國懸神宮へ戻る
武将戦国時代

前田利家

まえだとしいえ

1539 〜 1599

武将「前田利家」(戦国時代)

別名・通称

利家、前田又左衛門、槍の又左、犬千代、加賀大納言

戦国・安土桃山時代の武将(1539-1599)。 織田信長に仕えて「槍の又左」と呼ばれ、信長の没後は豊臣秀吉に従って、能登・加賀・越中を治めた。慶長3年(1598)には五大老の一人となった。 加賀藩の前田家の祖で、金沢城を本拠とした。
生涯・逸話
前田利家を理解する鍵は、信長の怒りを買って浪人になった経験をへて、秀吉のもとで大老の地位にまで進んだ、その歩みにある。 年齢は、すべて数え年で書いている。 【生まれと信長への出仕】 天文7年12月25日(西暦1539年1月)、尾張国荒子(あらこ、現在の名古屋市中川区)で、荒子城主の前田利春(としはる)の四男として生まれたとされる。前田家の記録による有力な説で、生年にはほかにも説がある。 幼名は犬千代、のちに孫四郎利家と名乗り、永禄元年(1558)に又左衛門と改めた。 天文20年(1551)ごろ、織田信長に仕えた。天文21年(1552)の萱津(かやつ)の戦いが初陣で、首を一つ挙げたと伝わる。 【槍の又左】 三間半(約6.3m)とされる長い槍を使う名手で、「槍の又左」の異名で呼ばれた。身長は6尺近く(約180cm)あったとされる。 【浪人と帰参】 永禄2年(1559)、信長の寵愛を受けていた同朋衆(どうぼうしゅう)の拾阿弥(じゅうあみ)を斬って、出奔した。柴田勝家らの取りなしで、出仕停止の処分になり、浪人となった。熱田神宮の社家の松岡家にかくまわれたという。 永禄3年(1560)、出仕停止の身で桶狭間の戦いに無断で加わり、首を三つ挙げたが、帰参は許されなかった。永禄4年(1561)の森部の戦いでも無断で戦って戦功をあげ、ようやく帰参を許された。 永禄12年(1569)、信長の命で、兄の利久(としひさ)に代わって前田家の家督を継いだ。 【能登の大名へ】 天正9年(1581)、信長の命で能登国の統治に入り、8月17日に能登一国を与えられて、七尾城に入った。 【賤ヶ岳の戦い】 信長の死後、天正11年(1583)4月の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは、柴田勝家方として約5000の兵を率いて布陣した。しかし戦いの最中に突然兵を退き、羽柴秀吉方の勝利を決定づけたとされる。 その後、府中城で堀秀政の勧めに従って秀吉に降り、勝家の北ノ庄城(きたのしょうじょう)攻めの先鋒を務めた。同じ年に加賀国の二郡を加えられ、本拠を小丸山城から金沢城へ移した。 【加賀・越中と五大老】 天正13年(1585)には、越中の3郡が子の利長に与えられた。文禄4年(1595)には越中の新川郡も利長に加わり、前田家は能登・加賀・越中で83万石余となった。これは利家の生涯で最大の領地だった。 慶長3年(1598)、秀吉により五大老の一人に命じられ、徳川家康と並ぶ大老の筆頭格の地位にあった。同年8月18日に秀吉が亡くなると、利家は秀頼の傅役(もりやく、養育係)として、秀頼を支えた。 【家康との対立と最期】 慶長4年(1599)1月、秀頼に付き添って大坂城に入った。家康が、秀吉の定めた法度に背いて、伊達政宗や福島正則らと無断で婚姻を進めたとして、利家は反発し、諸大名が家康邸と利家邸に集まる騒ぎとなった。2月2日に、四大老と五奉行が家康と誓紙を交わして和解した。 慶長4年閏3月3日(西暦1599年4月27日)、大坂の自邸で病没した。62歳である。法名は高徳院殿桃雲浄見大居士。 【没後の前田家】 利家の没後、家康は加賀を攻めることを検討したが、子の利長が母のまつ(芳春院)を人質に出すことを受け入れ、征伐は取りやめになった。まつは利家の従妹にあたる。 加賀藩の初代藩主は利家とされることが多いが、近年は、徳川氏に従った利長を初代とする見方もある。 【ゆかりの地】 荒子城跡(名古屋市中川区荒子)は、天文年間に利春が築いた城の跡で、利家の生誕地とされる。「前田利家卿誕生之遺址」の碑が立つ。生誕地は、同じ区内の前田速念寺(そくねんじ)とする説もあり、確定していない。 金沢城(石川県金沢市)は、天正11年(1583)に利家が本格的な築城を始めた城である。 尾山神社(金沢市尾山町)は、利家を祀る神社で、明治6年(1873)に創建された。国の重要文化財の神門で知られる。 野田山の加賀藩主前田家墓所(金沢市野田町)は、利家が自分も野田山に葬るよう遺言し、利長が墓所を築いたとされる。国の史跡に指定されている。 大徳寺芳春院(京都市北区)は、まつが建立した寺で、前田家の菩提寺である。