TabiShiri
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武将南北朝時代

楠木正成

くすのきまさしげ

1294 〜 1336

武将「楠木正成」(南北朝時代)

Kanō Sanraku, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

多聞丸、楠木兵衛尉、大楠公、楠公

鎌倉幕府を倒した元弘の乱の立役者で、後醍醐天皇の建武政権を支えた河内の武将。千早城にわずかな兵で籠もり、幕府の大軍を半年近く釘付けにして倒幕の流れを決定づけた。延元元年(1336年)、湊川で足利尊氏の軍に敗れ、弟の正季と刺し違えて自刃。明治以降は「大楠公」として神格化され、神戸の湊川神社に祀られている。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は「悪党」という言葉にある。現代語の「悪者」ではない。鎌倉末期の悪党とは、荘園領主や幕府の秩序の外側で、武力と経済力を蓄えた新興勢力を指す。正成が少ない兵で幕府の大軍を翻弄できたのも、後醍醐天皇が無位無官に等しいこの男を頼ったのも、そこに理由がある。 【河内の土豪】永仁2年(1294年)、河内国の金剛山西麓(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれたと伝わる。橘氏の後裔を自称したが、出自については駿河出身説、北条氏の被官だったとする説など諸説があり、確定していない。近年の研究では、摂津から河内・和泉・大和・伊賀・伊勢へと抜ける交通と流通の路を押さえた一族であったとみられている。それは六波羅探題と鎌倉を結ぶ線を断ち切れる位置でもあった。幼名は多聞丸と伝わり、観心寺で学問を、大江(毛利)時親に兵法を学んだという伝承がある。 【赤坂城と千早城】元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で挙兵すると、正成は河内の下赤坂城で呼応した。急ごしらえの城で寄せ手をよく防いだが、長期戦は無理と見て自ら城に火を放ち姿を消す。そして元弘3年(1333年)、金剛山の千早城に立て籠もった。落石、火計、奇計を重ねて、幕府の大軍を数か月にわたって山中に足止めする。この間に各地で倒幕の兵が挙がり、5月に六波羅探題が陥落。鎌倉幕府は滅んだ。一つの城が、政権を倒す時間を稼いだ。 なお、このとき攻め寄せた幕府軍を『太平記』は三十万騎とも百万騎とも記すが、実数は分かっていない。 【建武の新政】新政権で正成は、最高政務機関である記録所の寄人、訴訟を裁く雑訴決断所の奉行人、検非違使を務め、河内と和泉の守護、河内守にも任じられた。結城親光・名和長年・千種忠顕とともに「三木一草」と呼ばれ、後醍醐天皇の信任は厚かった。ただし建武元年に護良親王が捕らえられると、正成は多くの役職を辞したとされ、親王の有力な与力であったとみられている。 【湊川】建武3年/延元元年(1336年)5月25日、九州から東上した足利尊氏・直義の軍を迎え撃つため、正成は新田義貞とともに摂津の湊川に布陣した。足利方は圧倒的な大軍だったと伝わるが、近年の研究では、兵力差そのものよりも、細川定禅の水軍による陽動と、それに乗った義貞の動き、その隙を突いて新田軍と楠木軍を分断した足利兄弟の戦術が勝敗を分けたとみる指摘がある。 朝から夕まで戦い、手勢が尽きた正成は民家に入り、弟の正季と向き合った。『太平記』によれば、正成が「次の世で何を願うか」と問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤ」と答えたという。兄弟は刺し違えて果てた。享年43。のちに「七生報国」として知られる言葉である。 【伝説と史実】正成の像の多くは、南北朝の争乱を描いた軍記物『太平記』に由来する。ただし『太平記』は年月日の錯誤が多く、たとえば元弘2年の正成再挙兵を8か月も前倒ししている。息子の正行と桜井の駅で別れたという「桜井の別れ」も、史実かどうかは分かっていない。江戸期には徳川光圀が正成を深く敬い、湊川の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建てた。講談では諸葛孔明に重ねて語られ、天才軍師の像が広まった。 明治に入ると顕彰はさらに進む。明治元年、明治天皇の御沙汰により神社創祀が決まり、明治5年(1872年)、殉節の地に湊川神社が創建された。別格官幣社の第一号である。明治13年(1880年)には正一位を追贈された。昭和10年(1935年)には全国で六百年記念大祭が営まれている。「忠臣」という一色で塗られたこの時期の像が、いまも正成のイメージの土台になっている。 近年の中世史研究は、そこから正成を解き放とうとしている。生駒孝臣は、正成の実像を一つの型に収めるべきではないとし、大商人であり、廷臣であり、幕府の御家人でもあり、同時に幕府から訴追された悪党でもあった、という多面性を指摘している。 【ゆかりの地】殉節地と墓碑のある湊川神社(神戸市中央区)、首塚と伝わる塚や正成の学問所跡が残る観心寺(大阪府河内長野市)、籠城戦の舞台である千早城跡(千早赤阪村、国史跡)が三本の柱になる。ほかに楠木氏の氏神とされる建水分神社、生誕地と伝わる楠公誕生地、上赤坂城跡・下赤坂城跡がいずれも千早赤阪村にある。