TabiShiri
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公家奈良時代

光明皇后

こうみょうこうごう

701 〜 760

公家「光明皇后」(奈良時代)

別名・通称

光明、光明子、藤原安宿媛、藤三娘

奈良時代、聖武天皇の皇后です(701年〜760年)。藤原不比等の娘で、天皇の家の出でない女性として初めて皇后になりました。仏教を深く信じ、悲田院・施薬院を置いたほか、国分寺や東大寺の大仏をつくる事業を勧めたともいわれます。
生涯・逸話
【生まれ】大宝元年(701年)、藤原不比等(ふじわらのふひと)と県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ、のちの橘三千代)の娘として生まれました。名は安宿媛(あすかべひめ)で、光明子(こうみょうし)とも呼ばれます。 【皇后に】聖武天皇の妃となり、天平元年(729年)に皇后となりました。天皇の家の出でない、臣下の娘が皇后になった初めての例です。娘の阿倍皇女(あべのひめみこ)は、のちの孝謙天皇です。 【悲田院と施薬院】天平2年(730年)、皇后のために置かれた役所(皇后宮職)に、貧しい人を救う悲田院(ひでんいん)と、病気の人に薬を施す施薬院(せやくいん)が置かれたとされています。 【国分寺と大仏】聖武天皇は、全国に国分寺を建てることと、東大寺の大仏をつくることを命じました。これらの事業は、皇后の勧めによるともいわれます。 【正倉院の宝物】天平勝宝8年(756年)、亡くなった聖武太上天皇の遺品を中心に、600点あまりの品を東大寺の大仏に納めました。その中には、皇后が自ら書いたとされる「楽毅論(がっきろん)」もあります。これらの品が、今の正倉院の宝物のもとになりました。 【法華寺】父の不比等の邸宅があった土地を受け継いで皇后宮とし、天平17年(745年)にこれを寺としたのが、奈良の法華寺の始まりとされます。法華寺は、全国の国分尼寺をまとめる総国分尼寺とされました。本尊の十一面観音立像(国宝)は、光明皇后がモデルといわれています。 【千人の垢の伝説】『宝物集』や『元亨釈書』には、皇后が浴室を建てて千人の垢を流そうとしたところ、千人目に現れた病の人が、実は阿閦仏(あしゅくぶつ)であった、という伝説が伝えられています。 【最期】天平宝字4年(760年)6月7日に亡くなりました。60歳でした。佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)に葬られています。