武将戦国時代
小早川秀秋
こばやかわひであき
1582 〜 1602

別名・通称
秀秋、秀俊、羽柴秀俊、金吾、金吾中納言、辰之助
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、豊臣家の期待を背負って育てられた若い武将が、関ヶ原での決断によって、後の世にさまざまな評価を受けることになったことにあります。
【生まれと豊臣家での幼少期】
小早川秀秋(こばやかわひであき)は、天正10年(1582年)、近江(おうみ、今の滋賀県)に生まれました。
父は木下家定(きのしたいえさだ)で、秀吉の妻・北政所の兄にあたります。家定の五男とする資料が多いのですが、三男とする資料もあります。幼名は辰之助(たつのすけ)です。
幼いころに秀吉の養子となり、秀俊(ひでとし)と名乗りました。丹波亀山(たんばかめやま)で10万石を領したとされます。
【小早川家の当主として】
文禄2年(1593年)に秀吉の子の秀頼(ひでより)が生まれると、秀秋の立場は難しくなりました。
そこで、毛利一族の小早川隆景の養子となります。養子になった年は、1593年とする資料と、1594年とする資料があります。
のちに家督(かとく)を継ぎ、筑前(ちくぜん)の名島城(なじまじょう)を拠点に、筑前・筑後(ちくご)などで33万石から52万石ともいわれる広い領地を治めました。
【朝鮮出兵】
慶長2年(1597年)の慶長の役(朝鮮出兵)では、総大将として出陣しました。
釜山浦城(ふさんぽじょう)の守りについたほか、蔚山城(うるさんじょう)の救援でも活躍したとされます。
一方で、軽率な行動が問題とされ、秀吉の怒りを買ったともいわれます。その後、越前北庄(えちぜんきたのしょう)への移封(いほう、領地を替えること)を命じられたとされますが、筑前・筑後に戻ったと伝えられ、徳川家康のとりなしがあったとする記述もあります。
【関ヶ原の戦い】
慶長5年(1600年)、秀秋ははじめ西軍に属し、伏見城(ふしみじょう)攻めに加わりました。
8月28日には、東軍の黒田長政(くろだながまさ)と浅野幸長(あさのよしなが)が、秀秋の家老の平岡頼勝(ひらおかよりかつ)を通じて、東軍に味方するよう求める書状を送ったとされます。
9月14日に松尾山(まつおやま)に陣を置き、9月15日の本戦では、大谷吉継の陣に攻めかかりました。脇坂安治(わきざかやすはる)らもこれに続いたため、西軍は総崩れとなり、東軍の勝利につながりました。
【寝返りをめぐる話】
「家康が松尾山に向けて鉄砲を撃ち、寝返りをうながした」という「問鉄砲(といでっぽう)」の話が有名です。
しかし、この話は同時代の史料には見えず、江戸時代の中ごろ以降の書物に出てくる話です。史実かどうかについては、研究者の間でも意見が分かれています。
また、「正午ごろに寝返った」という通説も、見直しが進んでいます。寝返りは当日の思いつきではなく、開戦前からの交渉の結果だったと考えられています。
【戦後と岡山】
戦後、秀秋は宇喜多秀家(うきたひでいえ)の旧領である備前(びぜん)・美作(みまさか)で約50万石を与えられ、岡山城に入りました。
岡山では、城の改修と城下町の拡大、領内の検地(けんち)、寺社領の整備、二十日堀の建設などを進めました。
【最期と噂】
慶長7年10月18日(西暦では1602年12月1日)、秀秋は岡山で亡くなりました。数え年で21歳でしたが、22歳とする資料もあります。跡継ぎがなかったため、小早川家は断絶しました。
死因は、過度の飲酒による病、裏切りへの精神的な負い目、疱瘡(ほうそう)など諸説あり、はっきりしていません。そのころから「大谷吉継の祟り(たたり)だ」と噂された、という話が伝わります。
【評価について】
秀秋を「愚将」とする見方は、江戸時代の軍記物(ぐんきもの)の影響を受けたもので、近年は見直しも進んでいる、と解説する研究者もいます。
【ゆかりの地】
岡山市北区の瑞雲寺(ずいうんじ)は、小早川家の菩提寺(ぼだいじ)とされ、秀秋の廟所(びょうしょ)になっています。寺号は、秀秋の戒名にちなんで改められたとされます。
岡山城は、秀秋が改修を進めた城として知られます。
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