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公家戦国・江戸

北政所

きたのまんどころ

1549 〜 1624

公家「北政所」(戦国・江戸)

www.kodaiji.com/ guide/nene.html, Public domain, via Wikimedia Commons

別名・通称

ねね、おね、寧々、寧子、吉子、高台院、高台院湖月心公

豊臣秀吉の正室(1549?-1624)。名は「ねね」または「おね」。 身分の低い若者だった秀吉と、当時としては珍しい恋愛結婚で結ばれ、夫が天下人になるまでを共にした。 秀吉が関白になると「北政所」と呼ばれ、女性としては破格の従一位を授かっている。 夫の死後も26年を生き、豊臣家が滅びるまでを見届けた人でもある。
生涯・逸話
【この人を知る鍵】 北政所(きたのまんどころ)を「秀吉の妻」とだけ覚えると、いちばん面白いところを取りこぼす。彼女は身分の低い若者と恋愛結婚し、夫とともに天下人の座まで上りつめ、そして夫が死んだあとも26年を生きた。豊臣家が滅びるところまで見届けた人である。 【名前が一つに定まらない】 呼び名が定まらない人物である。秀吉自身が書いた手紙に「ねね」と記したものが確認されている一方、本人の署名は「ね」の一文字で、ここから「おね」と読む説も出された。これに対しては、当時の女性の署名は一文字が習わしであり、「ねね」という名の方がはるかに例が多い、という反論がある。朝廷の記録では夫の名をとって「豊臣吉子(とよとみのよしこ)」、法名(ほうみょう、亡くなったあとの仏教上の名)は「高台院湖月心公(こうだいいんこげつしんこう)」。今は「ねね」を採る研究者が多い。 【身分違いの恋愛結婚】 生まれた年は天文11年(1542)、天文17年(1548)、天文18年(1549)と説が分かれていて、確定していない。実の父は杉原定利(すぎはらさだとし)、母は朝日殿(あさひどの)。のちに縁戚である浅野長勝(あさのながかつ)の養女となった。 永禄4年(1561)、織田信長に仕えていた木下藤吉郎(きのしたとうきちろう、のちの秀吉)に嫁ぐ。まだ足軽に毛が生えた程度の身分で、母が強く反対したと伝わり、祝言も簡素だったという。親の決めた縁組が当たり前だった時代に、これは珍しい恋愛結婚だった。 【信長からの手紙】 のちに秀吉の浮気を信長に訴えたところ、信長の名で返事が届いた。「どこを探しても、あの禿(はげ)ねずみ(=秀吉)にはあなたほどの女性は二度と見つけられまい」と夫をたしなめ、正室として堂々としていなさい、と励ます内容である。実際に筆をとったのは信長の右筆(ゆうひつ、書記役)の楠長諳(くすのきちょうあん)とされる。文面は今も伝わっており、彼女がどう見られていたかを示す手がかりになっている。 【「北政所」は称号である】 天正13年(1585)、秀吉が関白(かんぱく)になると、彼女も従三位(じゅさんみ)に叙され、「北政所」の称号を許された。北政所はもともと摂政・関白の正妻を指す呼び名で、固有の名前ではない。天正16年(1588)には従一位(じゅいちい)を授かっている。武家の出の女性としては異例の高さだった。 秀吉が朝鮮出兵で九州に出ていた時期などには、諸大名やその妻たちと数多くの書状をやり取りしている。残された手紙の量から、豊臣政権の中で人と人をつなぐ役目を担っていたことがうかがえる。 【子を産まず、多くの子を育てた】 秀吉との間に子はなかった。かわりに一族や家臣の子を引き取って育てており、兄・木下家定(きのしたいえさだ)の子で、のちに関ヶ原の戦いで東軍に寝返る小早川秀秋(こばやかわひであき)もその一人である。加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)といった秀吉子飼いの武将たちも彼女を慕ったと伝えられる。ただし、どこまで実際に手をかけたかは資料によって幅があり、「養育した」の一語で片づけるのは少し乱暴かもしれない。 【秀吉の死後――高台院として】 慶長3年(1598)、秀吉が没する。慶長8年(1603)、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から「高台院」の号を賜り、出家した。 慶長10年(1605)から京都・東山で夫の菩提(ぼだい)を弔う寺の造営を始め、慶長11年(1606)に高台寺が完成する。造営には徳川家康が政治的な配慮から多額の援助を行い、京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)が普請奉行を務めた。伏見城にあった自分の化粧御殿(けしょうごてん)を寺の門前に移して住まいとし、亡くなるまでの19年をここで過ごした。 【関ヶ原と大坂の陣――通説が揺れている】 「北政所は淀殿(よどどの)と対立し、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)を後押しした」という説明をよく見かける。甥の小早川秀秋が東軍に寝返ったことも、その証拠のように語られてきた。 しかし近年の研究では、二人はむしろ協力し合う関係だったのではないかという見方が出ている。逆に、彼女の周囲には西軍に属した人物が多いことから西軍寄りだったとする説もあり、どちらとも確定していない、というのが現状である。よく知られた話ほど、実はまだ決着していないことがある。 元和元年(1615)の大坂の陣では、大坂へ行くことを幕府に許されず、甥の木下利房(きのしたとしふさ)が護衛と監視を兼ねて付けられた。彼女は、夫とともに築いた豊臣家が滅びるのを、京都から見ていたことになる。 【最期と、眠る場所】 寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷で没した。享年は76とする資料が多いが、77、83とする説もある。 遺骨は高台寺の霊屋(おたまや)に納められ、その上に彼女の木像が安置されている。堂内を飾る豪華な蒔絵(まきえ)は「高台寺蒔絵」と呼ばれ、桃山時代の美術を代表するものとして知られる。屋敷跡は寛永9年(1632)、木下利房によって高台寺の塔頭(たっちゅう、境内にある小さな寺)・圓徳院(えんとくいん)に改められた。 【ゆかりの地】 高台寺(京都市東山区)――彼女が建て、彼女が眠る寺。霊屋のほか、伏見城から移された傘亭(かさてい)・時雨亭(しぐれてい)が残る。 圓徳院(同上)――終焉の地。伏見城から移された庭が見どころ。 三井寺/園城寺(おんじょうじ、滋賀県大津市)――国宝の金堂は、秀吉の遺志を受けて高台院が慶長4年(1599)に寄進したもの。