武将戦国時代
吉川元春
きっかわもとはる
1530 〜 1586

別名・通称
元春、少輔次郎
生涯・逸話
毛利元就(もうりもとなり)の次男に生まれながら、他家の当主となり、毛利家の山陰(さんいん)方面の戦いを受け持った武将です。
【吉川家へ】
享禄3年(1530)、毛利元就の次男として安芸国(あきのくに、広島県)に生まれました。
天文16年(1547)、安芸の吉川家に入り、当主・吉川興経(きっかわおきつね)の養子となります。天文19年(1550)ごろに吉川家を継ぎ、日山城(ひやまじょう、広島県北広島町)に入りました。
【毛利家を支える】
弟の小早川隆景とともに毛利家を支え、二人は「毛利両川(もうりりょうせん)」とよばれました。家名に共通する「川」の字から、そうよばれたと説明されます。元春は、おもに山陰方面の戦いを受け持ちました。
弘治2年(1556)ごろから石見国(いわみのくに)へ出陣し、永禄5年(1562)からは出雲国(いずものくに)の尼子氏(あまごし)を攻めます。永禄9年(1566)に尼子氏の本拠・富田城(とだじょう、月山富田城〈がっさんとだじょう〉)を落とし、尼子氏は降伏しました。
元亀2年(1571)に元就が亡くなると、隆景とともに、若い甥の毛利輝元(もうりてるもと)を支えました。
【陣中で太平記を写す】
出雲の陣中で『太平記』を書き写したと伝わります。吉川家に伝わった吉川本『太平記』は、国の重要文化財です。
【織田・羽柴との戦い】
天正9年(1581)、因幡国(いなばのくに)で羽柴秀吉の軍と戦いました。
翌年の備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)の戦いのあと、輝元が秀吉と講和します。このとき、織田信長の死を知った元春は、秀吉を追うべきだと主張しました。しかし隆景らに止められたと伝わります。
同じ年、長子の元長(もとなが)に家督をゆずって隠居しました。秀吉の下に立つことを好まなかったためといわれます。
【最期とゆかりの地】
天正14年(1586)、毛利輝元の求めに応じて、秀吉の九州攻めに加わります。しかし豊前国(ぶぜんのくに)の小倉(こくら、北九州市)で病気になり、11月15日に亡くなりました。享年は数え年で57です。
隠居所として建てた吉川元春館跡(広島県北広島町)は、居城だった日山城跡などとともに、国の史跡「吉川氏城館跡」に含まれています。館跡の庭園は、国の名勝に指定されています。
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