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武将戦国・江戸初期

加藤清正

かとうきよまさ

1562 〜 1611

武将「加藤清正」(戦国・江戸初期)

別名・通称

虎之助、加藤主計頭、肥後守、清正公、浄池院殿永運日乗大居士

豊臣秀吉の又従弟にあたる縁から小姓として仕え、賤ヶ岳七本槍の一人として名を挙げた武将。 肥後を与えられて熊本城を築き、白川・坪井川をはじめとする大規模な治水と干拓を進めて、現在の熊本の土台を作った。 関ヶ原では東軍に属し、戦後は肥後の大半と豊後三郡を領する54万石余の大名となる。死後四百年を経たいまも「清正公さん」と呼ばれ、熊本城内の加藤神社に祀られている。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、熊本でいまも「清正公さん」と敬称付きで呼ばれている、という一点にある。戦場での勇名だけなら、四百年も土地の人に呼ばれ続けはしない。清正が残したのは城と、川と、田に引く水だった。 【秀吉の縁者として】永禄5年(1562年)6月24日、尾張国愛知郡中村、いまの名古屋市中村区に生まれた。母の伊都は豊臣秀吉の母・大政所と従姉妹にあたり、清正と秀吉は又従兄弟の関係になる。幼名は虎之助。天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕えた。十一歳である。 【賤ヶ岳と肥後】天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで敵将・山路正国を討ち取り、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられて3000石を得た。天正13年には従五位下・主計頭に叙任される。 そして天正16年(1588年)、佐々成政の改易を受けて、肥後の北半国19万5000石を与えられた。二十七歳。入ったのは隈本城、いまの熊本城とは別の場所にあった古城である。 【朝鮮での七年】文禄元年(1592年)に始まる朝鮮出兵では二番隊の主将を務めた。小西行長の一番隊と漢城入りを競い、咸鏡道を平定して朝鮮の二王子を捕らえている。だがこの戦役は清正に敵も作った。講和交渉のやり方をめぐって石田三成・小西行長と対立し、秀吉に訴えられて京へ召し返され、謹慎を命じられている。 慶長の役では右軍の先鋒として再び渡海した。慶長2年(1597年)12月の蔚山城の戦いでは、まだ普請の終わっていない城に籠もり、水も食糧も乏しいなかで十日あまり明・朝鮮の大軍を支え、援軍の到着まで持ちこたえた。清正の武名を決定づけた籠城である。 【関ヶ原、そして肥後】慶長5年(1600年)、清正は肥後に留め置かれていた。石田三成が挙兵すると徳川家康はこれを解き、清正は黒田如水と連携して九州の西軍を攻める。小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城を次々と落とし、あるいは開城させた。美濃の本戦には出ていない。関ヶ原で清正が戦ったのは九州である。 戦後、小西の旧領である肥後南半を加えられた。肥後の大半に豊後の三郡を合わせて54万石余、のちの熊本藩の版図がここで定まる。 【熊本城】慶長4年(1599年)ごろ、清正は茶臼山に新しい城の普請を始めた。完成は慶長12年(1607年)。このとき地名も「隈本」から「熊本」へ改められている。 反り返って人を寄せつけない石垣は「武者返し」と呼ばれる。城内には多数の井戸が掘られ、銀杏が植えられた。籠城を想定した城であることが、造りのすみずみから読み取れる。「銀杏城」の別名もここから来ている。この城は昭和30年(1955年)に国の特別史跡に指定された。 なお慶長15年(1610年)には、徳川家康の命による名古屋城の天下普請にも動員され、最も高い技術を要した天守台の石垣を築いている。 【川を治める】清正の名を熊本に刻んだのは、城よりむしろ川の仕事である。暴れ川として知られた白川と坪井川を大きく付け替え、緑川・球磨川・菊池川にも手を入れ、干拓を進めて新田を開いた。堤や取水の技法は近世を通じて使われ続けた。 白川流域のかんがい用水群は2018年に、菊池のかんがい用水群は2019年に、国際かんがい排水委員会の「かんがい施設遺産」に登録されている。四百年前の土木が、いまも現役で水を運んでいるということである。 【二条城会見と死】慶長16年(1611年)3月、徳川家康と豊臣秀頼が京の二条城で会見した。清正はこの席を取り持っている。ただし豊臣方の護衛としてではない。徳川頼宣の護衛役、すなわち徳川の家臣として臨んだ。豊臣恩顧の大名が置かれていた立場を、この配置がよく表している。 同年6月、熊本へ帰る船中で発病し、6月24日に没した。享年50。死因については脳溢血とする説が有力だが、病説から家康による毒殺説まで、古くから諸説が語られてきた。 【清正公さん】清正は熱心な日蓮宗の信徒で、白地に朱で題目を書いた旗を戦場に掲げた。父の追善のために創建した本妙寺を肥後に移し、領内に日蓮宗の寺を数多く建てている。遺骸はその本妙寺の浄池廟(熊本市西区花園)に葬られた。 清正への信仰は江戸期を通じて広がり、享保のころには毎月23日の命日前夜に参籠して願をかける人が絶えなかったという。明治の神仏分離を経て、清正を祀る社は錦山神社となり、明治42年(1909年)に加藤神社と改称した。城外へ移されていた社は昭和37年(1962年)に熊本城内へ戻り、いまは大天守・小天守・宇土櫓に囲まれた場所に鎮座している。城を築いた人が、その城のただ中に祀られている。