TabiShiri
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武将戦国時代

片桐且元

かたぎりかつもと

1556 〜 1615

武将「片桐且元」(戦国時代)

別名・通称

且元、片桐東市正

片桐且元(1556〜1615年)は、近江出身の武将で、豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。秀吉の死後は秀頼の後見役として豊臣家と徳川家の間の交渉にあたったが、大坂冬の陣の前に大坂城を去り、徳川方についた。
生涯・逸話
片桐且元は、戦国時代から江戸時代のはじめにかけて生きた武将である。豊臣秀吉に仕えたのち、秀吉の子・秀頼(ひでより)を支える立場となり、豊臣家と徳川家の間に立って交渉に力を尽くした。 【生まれと賤ヶ岳の戦い】 弘治2年(1556)、近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)で、浅井氏(あざいし)に仕えた片桐直貞(なおさだ)の長男として生まれた。浅井氏が滅んだあと、羽柴(のちの豊臣)秀吉に仕えたとされる。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で活躍し、「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」の一人に数えられた。 【秀頼の後見役として】 秀吉の死後は、秀頼の後見役(こうけんやく、そばで支える役)を務めた。摂津(せっつ)・河内(かわち)・和泉(いずみ)の国奉行(くにぶぎょう、国の政治を受け持つ役)も務めたとされる。慶長6年(1601)には大和国(やまとのくに)の竜田(たつた)で1万8千石を加えられ、合計2万8千石の大名となって、竜田を居所とした。竜田藩の初代でもある。 【方広寺鐘銘事件と大坂城を出るまで】 慶長19年(1614)、方広寺(ほうこうじ)の鐘に刻まれた言葉をめぐって、豊臣家と徳川家の対立が深まった。これを方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)という。且元は豊臣方の交渉の中心となって、家康との話し合いに奔走した。しかし大坂方からは、家康と通じているのではないかと疑われた。慶長19年10月1日、且元は淀殿(よどどの)らの疑いを受けて大坂城を出て、摂津の茨木城(いばらきじょう)に入った。このときの前後の動きには、はっきりしない部分もある。 【大坂の陣と最期】 大坂冬の陣・夏の陣では、徳川方として大坂城攻めに加わった。慶長20年(1615)5月28日、豊臣家の滅亡から約20日後に、病気で亡くなった。享年60である。 【ゆかりの地】 大阪府枚方市(ひらかたし)の片埜神社(かたのじんじゃ)の本殿は、且元が奉行として再建を進め、慶長7年(1602)に建てられた。桃山時代の様式をよく残し、国の重要文化財になっている。同じ枚方市の二ノ宮神社(にのみやじんじゃ)には、且元の名が記された棟札(むなふだ、建物の由来を記した札)が残る。どちらも大坂城の鬼門(きもん)を守る社として再建された。