学者・文化人戦国時代
狩野永徳
かのうえいとく
1543 〜 1590

別名・通称
永徳、源四郎、狩野派の頂点
生涯・逸話
狩野永徳(かのうえいとく)は、安土桃山時代の絵師です。織田信長や豊臣秀吉に仕え、城や御所の大きな障壁画(ふすまや壁に描く絵)を数多く手がけました。
【生い立ち】
天文12年(1543)、狩野松栄の長男として生まれました。祖父は、狩野派を大きく発展させた狩野元信です。幼いころの名は源四郎、のちの本名は州信(くにのぶ)といい、永徳は号です。
【信長のもとで】
1576年に始まった安土城の築城に起用されました。城の天主(天守)や御殿の障壁画を手がけたとされます。信長は、永徳が描いた「洛中洛外図屏風」を、1574年に上杉謙信に贈ったと伝わります。この屏風は上杉家に伝わり、現在は国宝として、山形県米沢市の上杉博物館に所蔵されています。
【秀吉のもとで】
信長の死後は、豊臣秀吉に仕えました。大坂城、聚楽第、正親町上皇の御所、天瑞寺などの障壁画を手がけたとされます。力強い大きな構図と、金地に鮮やかな色を使う「大画(たいが)」の様式を確立し、桃山時代の障壁画に大きな影響を与えました。
【代表作】
「唐獅子図屏風」は、二頭の唐獅子を力強く描いた屏風で、皇居三の丸尚蔵館に所蔵されています。この屏風のうち、永徳が描いたのは右隻です。左隻は、永徳のひ孫の狩野常信が江戸時代に描きました。右隻は国宝で、左隻は国宝附に指定されています。
「檜図屏風」は、東京国立博物館が所蔵する国宝で、晩年の作と考えられています。ただし、永徳の作風から判断された作品だとする説明もあります。
大徳寺の聚光院には、「花鳥図」「琴棋書画図」の障壁画が国宝として伝わります。
【最期】
天正18年(1590)9月14日、48歳で急に亡くなりました。子の光信が、狩野派を受け継ぎました。