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天皇奈良・平安

桓武天皇

かんむてんのう

737 〜 806

天皇「桓武天皇」(奈良・平安)

別名・通称

桓武、山部親王、日本根子皇統弥照尊

奈良時代の終わりから平安時代のはじめの第50代天皇です(737年から806年)。延暦3年(784年)に長岡京(ながおかきょう)、延暦13年(794年)に平安京(へいあんきょう)へと都を移しました。東北地方の蝦夷(えみし)への遠征を進め、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じました。最澄(さいちょう)が唐に渡って天台宗(てんだいしゅう)を学んだのも、この天皇の時代のことです。
生涯・逸話
【この天皇を理解する鍵】 桓武天皇を理解する鍵は、都を二度移し、東北への遠征も進めたように、大きな事業を積極的に進めた天皇だった、ということです。ただし、そのために人々の負担が大きくなったことなどから、評価には異なる見方もあります。 【生まれと即位】 天平9年(てんぴょう9ねん、737年)、白壁王(しらかべのおう、のちの光仁天皇)の子として生まれました。母は高野新笠(たかののにいがさ)です。諱(いみな、本名)は山部(やまべ)といいます。天応元年(てんのう元年、781年)、数え年で45歳のときに即位しました。第50代の天皇です。 【長岡京への遷都】 延暦3年(えんりゃく3ねん、784年)、平城京(へいじょうきょう)から長岡京に都を移しました。その理由として、平城京の仏教勢力から離れること、天武天皇の系統から天智天皇の系統に皇位が移ったことを示すこと、水上と陸上の交通がよい土地を選ぶことの三つが説明されています。 延暦4年(785年)、長岡京の造営の責任者だった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されました。この事件で、皇太子の早良親王(さわらしんのう)は罪を問われて皇太子をやめさせられ、流されて、その途中で亡くなりました。 【平安京への遷都】 延暦13年(794年)、都を平安京に移しました。場所は山背国(やましろのくに)の愛宕郡(おたぎぐん)と葛野郡(かどのぐん)、今の京都市にあたります。このとき、国の名も山背から山城に改められました。広さは東西4.5キロメートル、南北5.2キロメートルほどでした。早良親王のたたりが恐れられたことと、和気清麻呂(わけのきよまろ)の建議があったことが、新しい都を求めるきっかけになったと説明されます。桓武天皇は、この地を、山や川にかこまれて自然の城のようになっていると述べたと伝えられます。 【蝦夷への遠征】 朝廷は、東北地方の蝦夷との戦いを続けていました。延暦8年(789年)には朝廷軍が敗れ、延暦13年(794年)に2度目の遠征が行われました。延暦16年(797年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801年)に3度目の遠征が行われて、胆沢(いさわ)の地が朝廷のものになりました。翌年には胆沢城(いさわじょう)がつくられ、鎮守府(ちんじゅふ、軍をまとめる役所)が多賀城(たがじょう)から移されました。蝦夷の指導者の阿弖流為(あてるい)は田村麻呂に降伏して都に上り、助命を願いましたが、聞き入れられなかったと伝えられます。 【事業の中止】 延暦24年(805年)、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の意見により、平安京の造営と蝦夷との戦いは中止されることになりました。これは、徳政相論(とくせいそうろん)と呼ばれる、菅野真道(すがののまみち)との議論の結果です。 【最澄と延暦寺】 桓武天皇の時代に、最澄は還学生(げんがくしょう)として唐に渡り、天台宗を学びました。最澄は延暦4年(785年)に比叡山に入り、延暦7年(788年)に小さな堂を建てて薬師仏を安置しました。これが延暦寺の始まりの一乗止観院(いちじょうしかんいん)です。延暦寺という寺号が与えられたのは、桓武天皇の没後の弘仁14年(823年)でした。延暦寺は、平安京が造られたあと、都を守る寺とされました。 【最期と陵】 延暦25年3月17日(806年4月9日)に亡くなりました。数え年で70歳でした。陵(みささぎ、墓)は、京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)で、宮内庁が管理する桃山陵墓地の中にあります。所在地には諸説があります。 【評価】 積極的に政治を行い、遷都や遠征を進めた実行力は、よく評価されます。一方で、造営や遠征が百姓の負担になったことや、健児制(こんでいせい、郡司の子弟などを兵とする制度)の導入のあとで軍事力が弱まったとされること、早良親王や井上内親王(いのえないしんのう)が不審な亡くなり方をしたことなどが、評価の分かれる点として挙げられます。