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天皇神代

神功皇后

じんぐうこうごう

天皇「神功皇后」(神代)

別名・通称

息長帯比売命、オキナガタラシヒメ、気長足姫尊

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后で、応神天皇(おうじんてんのう)の母。神のお告げを受け、夫の死後に新羅(しらぎ)へ出兵したと日本書紀は伝える。住吉大社(すみよしたいしゃ)、宇佐神宮(うさじんぐう)、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)、香椎宮(かしいぐう)など、各地の神社で祀られている。
生涯・逸話
この皇后を理解する鍵は、「神のことばを伝える巫女(みこ)であり、のちの八幡神(はちまんしん)の母」という二つの顔にあります。 【名前】 日本書紀では「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」、古事記では「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)」と書きます。「神功皇后」は、のちにつけられた呼び名です。仲哀天皇の皇后にあたります。 【神がかりと仲哀天皇の死】 筑紫(つくし、今の九州北部)の橿日宮(かしひのみや)で、仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つ相談をしていたとき、皇后に神が降り、「熊襲よりも先に新羅を従えよ」とお告げがありました。天皇はこのお告げを信じず、熊襲との戦いもうまくいかないまま、急に亡くなったと伝えられます。橿日宮があった場所が、今の香椎宮です。その後も皇后を通して、住吉大神(すみよしのおおかみ)が、おなかの子に海の向こうの宝の国を授けるというお告げを下したといいます。 【新羅への出兵】 皇后は身ごもったまま、神の助けを受けて船団を率い、新羅に向かいました。日本書紀の伝承では、新羅の王が従ったとされ、百済(くだら)や高句麗(こうくり)も従ったと伝える話もあります。この出来事は、のちに「三韓征伐(さんかんせいばつ)」と呼ばれるようになりました。家臣の武内宿禰(たけうちのすくね)が仕えたとも伝わります。 【応神天皇の誕生と摂政】 帰国した皇后は、筑紫の宇美(うみ)で応神天皇を産みました。その後、大和(やまと)へ戻り、応神天皇の異母兄にあたる忍熊王(おしくまのみこ)らの反乱を鎮めたと語られます。日本書紀では、応神天皇が即位するまで摂政(せっしょう)として69年間政治を行ったとされますが、皇后自身が正式に即位したとはされていません。 【史実かどうか】 神功皇后の実在や事績については、研究者の間でさまざまな見方があります。国史大辞典は、仲哀天皇が日本武尊(やまとたけるのみこと)と神功皇后の話を皇室の系譜に位置づけるため、後から加えられた存在である可能性が強いと述べています。新羅の話は6世紀後半以降にまとめられたとする見方や、息長氏(おきながし)の伝承が重なっているという見方もあります。 【祀られる神社】 住吉大社(大阪)は、社伝で、皇后が新羅出兵のときに住吉三神を祀ったことに始まるとされ、第四本宮に神功皇后が祀られています。香椎宮(福岡)は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神を祀ります。宇佐神宮(大分)では応神天皇にあたる八幡大神と比売大神(ひめおおかみ)とともに第三殿に、石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)でも、応神天皇と比売神とともに祀られています。