武将幕末・明治
板垣退助
いたがきたいすけ
1837 〜 1919

別名・通称
乾退助、猪之助
幕末から明治にかけての土佐藩出身の政治家(1837〜1919)。戊辰戦争で土佐藩の部隊を率いて戦い、明治新政府の参議になりました。明治6年(1873)に政府を去ったあと、民撰議院設立建白書を出して自由民権運動を率い、自由党の総理(党首)として議会政治の実現に力を注ぎました。
生涯・逸話
【言葉で国を動かそうとした人】
板垣退助を理解する鍵は、戦場で名を上げた武士が、のちに武器ではなく言葉と議会によって国を動かそうとしたことです。
【土佐藩士・乾退助】
天保8年(1837)、土佐藩士・乾正成(いぬいまさしげ)の長男として、高知城下に生まれました。幼名は猪之助(いのすけ)です。藩主・山内豊信(やまうちとよしげ、号は容堂)の側用人(そばようにん)などを務めたのち、慶応3年(1867)には、薩摩藩と倒幕に向けた密約(薩土密約)を結んだ土佐藩側の一人となりました。
【戊辰戦争と「板垣」の名】
戊辰戦争(1868〜1869)では、下級武士を中心に編成された土佐藩の部隊・迅衝隊(じんしょうたい)を率いて戦い、会津の激戦にも加わりました。戦いの途中、退助は武田信玄の重臣・板垣信形(いたがきのぶかた)の子孫であると甲州(今の山梨県)の浪人(ろうにん)らに呼びかけ、味方になるよう求めました。このとき姓を乾から「板垣」に改めています。
【政府を去り、自由民権運動へ】
明治新政府では参議になりましたが、明治6年(1873)、朝鮮への対応をめぐる政府内の争い(明治六年の政変)で意見が通らず、後藤象二郎らとともに政府を去りました。翌明治7年(1874)1月、後藤象二郎・副島種臣(そえじまたねおみ)・江藤新平らと「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」を政府に出し、国民が選んだ議員による議会をつくるよう求めます。同じ年の4月には高知で立志社(りっししゃ)をつくり、ここから自由民権運動が全国に広がりました。明治14年(1881)には自由党の総理(党首)になっています。
【岐阜での遭難】
明治15年(1882)4月6日、岐阜での演説を終えて会場を出たところを、相原尚褧に短刀で襲われ、けがを負いました。命に別状はありませんでした。このとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われています。ただし、記録によっては言葉が異なっており、実際に口にしたかどうかは確かではない、という見方もあります。この言葉は、自由民権運動を象徴する言葉として広く知られるようになりました。
【大臣として、そして晩年】
明治20年(1887)には伯爵の位を授けられました。その後、第2次伊藤博文内閣で内務大臣を務め、明治31年(1898)6月には、大隈重信を総理大臣とする内閣でふたたび内務大臣になります。大隈と板垣の名前から「隈板(わいはん)内閣」と呼ばれ、日本で最初の政党内閣とされますが、4か月ほどで終わりました。晩年は、社会をよくするための活動にも力を注ぎ、受刑者の子どもたちのための保育会(1912年)にもかかわって、世間が「罪人の子」と見下す態度を批判しました。大正8年(1919)7月16日、数え年で83歳で亡くなりました。
【ゆかりの地】
高知市の高知城では、追手門(おうてもん)を入ってすぐの石段の上り口に、退助の銅像が立っています。生まれたのは高知城下の中島町(今の高知市本町のあたり)とされます。岐阜市の岐阜公園には、遭難の地の碑と銅像があります。墓は、高知市の板垣山墓所と、東京都品川区の高源院墓地にあります。
ゆかりの神社・寺・城2 件