武将戦国時代
石田三成
いしだみつなり
1560 〜 1600

別名・通称
三成、石田治部少輔、佐吉
生涯・逸話
石田三成は、豊臣秀吉に仕えた武将である。戦いよりも、領地の調査や物資の手配といった政務で力を発揮した。秀吉の死後、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で西軍の中心となったが敗れ、処刑された。
【生まれ】
永禄3年(1560)、近江国(おうみのくに)坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に、石田正継(まさつぐ)の次男として生まれた。幼名は佐吉(さきち)である。
【三献の茶】
少年のころ、鷹狩り(たかがり)の途中で立ち寄った羽柴(のちの豊臣)秀吉に茶を出した、という逸話が伝わる。はじめはぬるめの茶を大きな茶碗に、次に少し熱い茶を、最後は小さな茶碗に熱い茶を出し、相手の様子に合わせた気配りが秀吉の目に留まったという。場所は米原市朝日の観音寺(かんのんじ)と伝えられる。ただし、後の時代の作り話とする見方もある。
【秀吉のもとでの仕事】
三成は秀吉の側近として、検地(けんち、田畑の広さや収穫量の調査)や物資の手配などの実務を担った。天正12年(1584)の近江での検地をはじめ、太閤検地(たいこうけんち)の実務の中心にいたとされる。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、名護屋(なごや)の本営の準備や兵站(へいたん、物資の補給)を受け持ち、奉行として海を渡って前線の軍を見て回ったともいわれる。堺(さかい)の奉行も務め、のちに五奉行(ごぶぎょう)の一人となった。
【佐和山城主として】
文禄4年(1595)、近江の佐和山城(さわやまじょう、現在の滋賀県彦根市)の城主となった。領地は約19万石とされる。
【関ヶ原の戦いまで】
慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、徳川家康の勢いが豊臣家を上回ることに強い危機感を持った。慶長4年(1599)には加藤清正・黒田長政ら七人の武将の襲撃を受け、佐和山に退いた。朝鮮出兵をめぐる対立が背景にあったと考えられている。その後も上杉景勝・大谷吉継(おおたによしつぐ)・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと連絡を取り、慶長5年(1600)、家康が上杉景勝を討つために東へ向かうと、毛利輝元(もうりてるもと)を盟主(めいしゅ、中心となる人)に迎えて兵を挙げた。
【関ヶ原の戦い】
慶長5年(1600)8月に大垣城(おおがきじょう)に入り、9月15日に関ヶ原で家康の東軍と戦った。はじめは西軍がやや優勢だったが、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りで総崩れとなり、敗れた。三成は近江で捕らえられ、10月1日、京都の六条河原で処刑された。享年41である。なお、処刑の場所を三条河原とする資料もある。
【ゆかりの地】
生誕地の石田町(長浜市)には、生家跡に建つ石田会館がある。観音寺(米原市朝日)は三献の茶の舞台とされ、居城だった佐和山城の跡は彦根市にある。墓は、京都・大徳寺(だいとくじ)の塔頭(たっちゅう)、三玄院(さんげんいん)にあるとされる。