武将戦国時代
今川義元
いまがわよしもと
1519 〜 1560

Utagawa Kuniyoshi, Public domain, via Wikimedia Commons
別名・通称
芳菊丸、栴岳承芳、今川治部大輔、海道一の弓取り、天沢寺殿秀峰哲公大居士
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は「僧侶として育った大名」だという点にある。義元は最初から跡継ぎではなかった。寺で経典や漢籍を学んで育った経験が、のちに法度を整え、京の文化を取り入れ、僧の太原雪斎を重く用いた統治のあり方につながったともいわれる。
【寺で育った三男】永正16年(1519年)、駿河の守護大名・今川氏親の三男として生まれた。母は公家の中御門宣胤の娘で、のちの寿桂尼とされる。幼名を芳菊丸といい、家督を継ぐ見込みの薄い子として富士郡の善得寺に入り、出家した(師の名は資料により表記が異なる)。僧名は栴岳承芳と伝わる(梅岳承芳と記す辞典もある)。兄弟子の九英承菊が、のちの太原雪斎である。
【花倉の乱】天文5年(1536年)、当主であった兄の氏輝が亡くなる。跡目をめぐって、僧になっていた兄の玄広恵探との争いとなり、承芳は太原雪斎に支えられてこれに勝った。承芳は還俗して義元と名乗り、今川家の当主となった。
【太原雪斎という片腕】義元の治世を語るとき、雪斎の存在は欠かせない。雪斎は義元の師であり、戦略を考える軍師として、外交や軍事にも関わった。臨済寺の住持も務めている。雪斎は弘治元年(1555年)に亡くなった。桶狭間の戦いは、その5年後である。
【河東一乱から三国同盟へ】義元は武田信虎の娘を妻に迎えて甲斐の武田氏と結んだ。天文6年(1537年)には北条氏綱が駿河に攻め込み、富士川以東の河東地方が奪われた(河東一乱)。今川氏は天文14年(1545年)にこれを取り戻している。そして天文23年(1554年)、武田・北条と互いに娘を嫁がせ、甲相駿三国同盟を結んだ。背後を同盟で固め、西の三河・尾張へ向かう構えが整った。
【三河を取り、家康を迎える】天文18年(1549年)、義元は岡崎を押さえ、織田方の安祥城を攻めて織田信広を捕らえた。この信広との人質交換で、竹千代、のちの徳川家康を迎えている(駿府に移った時期は、翌年とする辞典もある)。家康は駿府で十年あまりを過ごし、雪斎の教えを受けたと伝わる。のちに天下を取る家康は、今川の城下で育った。
【仮名目録追加】天文22年(1553年)、義元は父の定めた分国法「今川仮名目録」に、追加の条文(21か条)を加えた。戦国大名として領国の支配を整えた法として知られる。
【桶狭間】永禄3年(1560年)5月、義元は約2万(2万5千とも伝わる)の軍勢で尾張へ向かった。松平元康らには大高城への兵糧の搬入などを任せ、5月19日、桶狭間で織田信長の攻撃を受けて討たれた。桶狭間の場所は名古屋市と豊明市の2説がある。討ち取ったのは服部小平太や毛利良勝らと伝わる。愛刀の「義元左文字」は信長の手に渡り、信長が磨き上げて打刀に仕立て、銘を入れた。現在は建勲神社が所蔵する重要文化財である。享年42。
この戦いには、教科書的な説明と近年の見方とで食い違いがある。目的は、長く「上洛をめざしていた」と説明されてきたが、確実な史料はなく、尾張への侵攻と勢力の拡大が目的だったとみる見方も出ている。戦い方も、雨の中の奇襲とする説明など諸説あり、史料が少ないこともあって決着していない。
【評価】義元には「公家かぶれの愚将」というイメージが長くついて回った。しかし日本大百科全書は、近世の史書が家康の人質だった事情もあって義元の器量を十分に描かないと指摘し、残る史料からは有能な戦国大名の一人だったとみている。駿河・遠江・三河の三か国を治め、法度を整え、今川氏の最盛期を築いた。生誕500年の2019年には、静岡で「今川義元公生誕五百年祭」が開かれた。
【墓所とゆかりの地】臨済寺(静岡市葵区)は今川家の菩提寺で、義元の兄・氏輝の菩提寺として伝わる。創建の経緯は資料により説明が分かれる。太原雪斎が住持を務め、人質時代の家康が雪斎の教えを受けた寺とも伝わる。本堂は国の重要文化財、庭園は国の名勝に指定されている。通常は非公開で、義元の命日にあたる5月19日などに特別公開される年がある。境内には今川家の墓所(静岡市指定史跡)がある。
桶狭間のあと、胴は三河の大聖寺(愛知県豊川市)に葬られたと伝わり、胴塚が残る。首塚は愛知県西尾市の東向寺にあり、義元塚は清須市の正覚寺にある。

梧斎年英筆「今川義元 桶狭間大合戰之圖」、3枚揃錦絵

Toshihide Migita, Public domain, via Wikimedia Commons
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