タビシリ
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僧侶室町時代

一休宗純

いっきゅうそうじゅん

1394 〜 1481

僧侶「一休宗純」(室町時代)

別名・通称

一休、一休さん、周建、狂雲子

室町時代の臨済宗の僧(1394〜1481)。後小松天皇の子といわれます。 形にとらわれた当時の禅を批判し、型破りな言動で知られました。晩年には大徳寺の住持となり、応仁の乱で荒れた大徳寺の再建に力を尽くしています。 「とんちの一休さん」の話は後世につくられたものです。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】 一休宗純を理解する鍵は、「とんちの一休さん」と、本物の一休とを分けて見ることにある。子ども向けのとんち話は、後の時代につくられたものだ。本物の一休は、形ばかりになった当時の禅を鋭く批判し、型破りな生き方をつらぬいた禅僧だった。 【生い立ちと修行】 応永元年(1394)、京都に生まれた。後小松天皇の子といわれる。幼名は周建(しゅうけん)。 6歳で京都の安国寺に入った。17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)に学び、その後、近江の堅田(かたた)で華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となって厳しい修行を積んだ。「一休」の号は、この華叟から授けられたものである。 【型破りな禅僧】 一休は、形式や決まりごとを否定する自由な言動や奇行で知られた。それは、形だけになり世俗にまみれた当時の臨済禅への反発だったと考えられている。 晩年には、目の見えない女性・森侍者(しんじしゃ)を深く愛し、その思いを詩に詠んだ。 詩集『狂雲集(きょううんしゅう)』に、その心が率直に記されている。「狂雲子」は一休の号の一つである。 【大徳寺の住持として】 応仁の乱のころは、戦火を避けて山城国薪(たきぎ、いまの京都府京田辺市)の酬恩庵(しゅうおんあん)に身を寄せた。 文明6年(1474)、81歳のとき、天皇の命で大徳寺の住持となる。応仁の乱で荒れ果てた大徳寺の伽藍(がらん)の再建に力を尽くした。 【最期】 文明13年(1481)11月21日、酬恩庵で亡くなった。88歳。 墓所は大徳寺の真珠庵と酬恩庵にあり、どちらにも一休自身を刻んだ等身大の木像が安置されている。 【とんちの一休さん】 世に伝わるとんち話は、後世につくられたものである。江戸時代には『一休咄(いっきゅうばなし)』などの本が出て、子どもたちにも親しまれるようになった。