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武将戦国・江戸

池田輝政

いけだてるまさ

1564 〜 1613

武将「池田輝政」(戦国・江戸)

別名・通称

池田照政、古新、池田三左衛門、松平輝政、西国将軍、姫路宰相、国清院殿泰叟玄高大居士

織田信長の重臣・池田恒興の次男。小牧・長久手の戦いで父と兄を同時に失って家督を継ぎ、信長・秀吉・家康と主を替えながら生き残った。 徳川家康の次女・督姫を妻に迎え、関ヶ原の戦功で播磨52万石を得て姫路城主となる。 慶長6年(1601年)から8年をかけて姫路城を大改修し、現在国宝・世界遺産となっている白亜の城の姿を作り上げた。
生涯・逸話
この人物を理解する鍵は、輝政が天下を取ろうとした男ではない、という点にある。信長、秀吉、家康。主君が三度替わるたびに、次に勝つのは誰かを見誤らなかった。その結果として最後に与えられた役割が、西国の大名を睨む番人であり、姫路城はその役割のかたちそのものである。 【一日で父と兄を失う】永禄7年(1564年)、尾張清洲に池田恒興の次男として生まれた。幼名は古新、初めは照政と名乗る。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助がともに討ち死にした。二十一歳の輝政が家督を継ぎ、美濃大垣城に入る。翌天正13年には岐阜城主となった。自ら望んだ相続ではない。 【秀吉のもとで】その後は豊臣秀吉に従い、紀州征伐、富山の役、九州平定と、主だった合戦に従軍した。天正18年(1590年)の小田原征伐ののち、三河吉田城主として15万2000石に加増される。文禄の役では甥にあたる秀次に付けられ、国内の守備にあたった。 【家康の婿】文禄3年(1594年)、秀吉の仲介で徳川家康の次女・督姫を継室に迎えた。これが輝政の立場を決定的に変える。豊臣政権下で豊臣一族に準じて遇されながら、同時に「神君の婿」となったのである。どちらが勝っても致命傷を負わない位置に、輝政は立った。 【関ヶ原と播磨】慶長5年(1600年)、輝政は東軍に属した。前哨戦で織田秀信の守る岐阜城を落とし、本戦では南宮山に布陣する西軍を抑える役にまわる。直接の交戦はなかったが、この抑えが戦局を支えた。 戦後、37万石を加増されて52万石。播磨一国を与えられ、同年10月に姫路城へ入った。石高だけを見れば外様としては破格だが、その意味は石高ではない。姫路は西国へ向かう街道の要にある。徳川が西国の大名をどう扱うつもりかを、この配置は語っている。 【八年の普請】慶長6年(1601年)、輝政は姫路城の大改修に着手した。完成は慶長14年(1609年)、8年を費やしている。姫路城は赤松氏以来の城で、羽柴秀吉が三層の天守を築いていた。輝政はそれを取り払い、外観五重・内部七階の大天守を建て、三つの小天守を渡櫓でつないだ連立式の天守群を築いた。城下の町割りと、加古川流域の河川改修も同時に進めている。城だけを建てたのではなく、播磨という国そのものを作り替える事業だった。 この城は昭和6年(1931年)に国宝、平成5年(1993年)に日本で最初の世界文化遺産に登録された。輝政の後、元和3年(1617年)に入った本多忠政が西の丸などを整えて、現在の姿がそろう。 【天下普請】慶長15年(1610年)、徳川家康が命じた名古屋城の築城に、輝政は加藤清正・福島正則・黒田長政ら二十家の外様大名のひとりとして動員された。石垣の普請を分担して受け持つ、いわゆる天下普請である。姫路城を仕上げた翌年、今度は徳川のための城を積むことになった。 【姫路宰相百万石】輝政自身の52万石に加え、五男の忠継が備前岡山28万石、六男の忠雄が淡路洲本6万石、弟の長吉が因幡鳥取6万石を領し、一族の所領は合わせて92万石、一説に100万石に達した。「姫路宰相百万石」「西国将軍」と呼ばれたのはこのためである。 統治の姿勢は寛容だったと伝わる。口数が少なく、物事にこだわらない人柄で、下の者には寛く接し、善行を顕彰したという。 【中風】慶長17年(1612年)1月、中風に倒れた。8月にはいったん回復して参議に任じられるが、翌慶長18年(1613年)1月25日、再び中風のため没した。享年50。なお「照政」から「輝政」への改名は、その数年前の慶長12年(1607年)のことである。徳川から松平の姓も許されている。 【墓所】当初は京都の妙心寺護国院に葬られた。その後、火災を機に、孫にあたる岡山藩主・池田光政が改葬を決め、寛文7年(1667年)、備前の和意谷(岡山県備前市吉永町)に移された。和意谷池田家墓所の「一のお山」に、父・利隆とともに眠る。儒教式の墓制で営まれた、近世大名墓として異例の墓所である。