武将戦国・江戸
細川忠興
ほそかわただおき
1563 〜 1646

別名・通称
忠興、細川三斎、三斎、三斎宗立
生涯・逸話
細川忠興は、戦国の乱世を生き抜いた武将であり、千利休の教えを受け継いだ茶人でもありました。この二つの顔を軸に、その生涯を見ていきます。
【生まれと家族】
細川忠興(ほそかわただおき)は、永禄6年(1563年)11月13日(西暦では11月28日)に、京都で生まれたとされます。
父は細川藤孝(ふじたか)で、のちに幽斎(ゆうさい)と名乗りました。忠興はその長男です。母は沼田光兼(ぬまたみつかね)の娘とされます。
【ガラシャとの結婚と本能寺の変】
天正6年(1578年)8月、忠興は明智光秀の娘・玉(たま)と結婚しました。玉は、のちに洗礼を受けて「ガラシャ」と呼ばれる人物です。結婚の年は、1579年とする資料もあります。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、光秀から味方になるよう誘われましたが、忠興は断りました。父とともに髪を切って、光秀に加わらない意思を示し、豊臣秀吉に味方します。
玉は、丹後(たんご)の味土野(みどの)に身を置かされた(蟄居、ちっきょ)とされます。これも、光秀の謀反に加わらない意思を示すためだったと考えられています。ただし、玉がいた場所については、異なる説もあります。
【関ヶ原の戦い】
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に味方しました。
父の幽斎と弟の幸隆(ゆきたか)は、丹後の田辺城(たなべじょう)にこもって戦いました。忠興自身は本戦で戦い、敵の首を136挙げたとも言われます。
そのころ、大坂の屋敷にいた玉は、西軍の人質になることを拒み、最期を遂げました。
【小倉と領地】
戦いのあと、忠興は豊前・豊後で、あわせて39万9千石を与えられました。
はじめは中津城(なかつじょう)に入り、慶長7年(1602年)には、関門海峡を押さえる小倉に新しい城を築いて移りました。
【茶人として】
忠興は千利休の弟子で、「利休七哲」の一人に数えられます。
天正15年(1587年)の北野大茶会(きたのおおちゃかい)では、「松向庵(しょうこうあん)」という茶屋を構えました。
忠興の茶の系統は「三斎流」と呼ばれ、忠興は三斎流の祖と仰がれています。著書に『細川三斎茶書』があります。「三斎」は、隠居したあとの号です。
【隠居と晩年】
元和6年(1620年)ごろ、病気のために隠居し、家督を子の忠利(ただとし)に譲ったとされます。元和5年とする資料もあります。隠居後は、中津城に住みました。
寛永9年(1632年)、忠利が小倉から肥後(ひご)熊本の54万石に移ると、忠興も八代城(やつしろじょう)に移りました。
正保2年12月2日(西暦では1646年1月18日)、八代で亡くなったとされます。83歳(数え年)でした。
【ゆかりの地】
忠興の墓所としては、熊本市の泰勝寺跡(たいしょうじあと)にある細川家墓所と、京都市の高桐院(こうとういん)が挙げられています。
小倉城は、忠興が慶長7年に築いた城として知られます。
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