TabiShiri
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公家戦国時代

細川ガラシャ

ほそかわがらしゃ

1563 〜 1600

公家「細川ガラシャ」(戦国時代)

別名・通称

ガラシャ、玉、玉子、明智玉、細川玉子、秀林院

戦国時代の女性(1563-1600)。明智光秀の娘(三女とする説が一般的)で、天正6年(1578)に細川藤孝(幽斎)の子・忠興に嫁いだ。本能寺の変のあと、丹後の味土野に置かれたと伝えられる(異論もある)。天正15年(1587)に侍女の手で密かに洗礼を受け、洗礼名はガラシャ。慶長5年(1600)、石田三成方に屋敷を囲まれ、人質になることを拒んで亡くなった。
生涯・逸話
【この人物を理解する鍵】 ガラシャは、明智光秀(あけち みつひで)の娘として生まれ、細川忠興(ほそかわ ただおき)の妻となり、本能寺の変(ほんのうじのへん)のあとの苦しい時期を経て、キリスト教の洗礼を受けた女性です。「ガラシャ」は洗礼名で、ラテン語で「神の恵み」を意味するとされます。生まれたときの名は「たま」(玉または珠)や「玉子」と書かれますが、当時は今のような戸籍名がなかったため、本名と断定できないという指摘もあります。また、「細川ガラシャ」という呼び方は、後の時代に使われるようになった歴史用語とする見方があります。 【生まれと結婚】 永禄6年(1563)、明智光秀の娘として生まれました。越前国(えちぜんのくに)で生まれたとされます。光秀の娘のうち何番目かについては、三女とする説明が一般的ですが、次女とする説もあります。母は妻木煕子(つまき ひろこ)とされます。 天正6年(1578)8月、織田信長(おだ のぶなが)の取り決めで、細川藤孝(ふじたか、のちの幽斎〈ゆうさい〉)の子である忠興に嫁ぎました。結婚を天正7年(1579)とする資料もあります。子は5人とされ、長女は於長(おちょう)、長男は忠隆(ただたか)、三男は忠利(ただとし)です。 【本能寺の変のあと】 天正10年(1582)6月、父の光秀が本能寺の変で織田信長を討ちましたが、光秀は敗れ、明智家は滅びました。忠興は玉を離縁せず、玉は丹後国(たんごのくに)の味土野(みどの)に置かれ、天正12年(1584)まで過ごしたと伝えられます。味土野は今の京都府京丹後市弥栄町(やさかちょう)にあたり、同町の須川には、隠れ住んだ跡とされる場所に碑が建っています。 ただし、この幽閉については異論があります。玉は丹波国(たんばのくに)船井郡(ふないぐん)に滞在していたとして、味土野への幽閉は史実として成り立たないとする反論も出されています。天正12年(1584)3月には、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のとりなしで、大坂の細川屋敷に戻りました。 【洗礼を受ける】 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州出陣のあと、秀吉が九州で宣教師の追放令を出したことを知った玉は、宣教師が九州へ向かう前にと、セスペデス神父の計らいで、自分の屋敷で侍女のマリアから密かに洗礼を受けたと伝えられます。洗礼名は「ガラシャ」です。それ以前に教会を訪れたときは、洗礼を見送られたとされます。 【最期】 慶長5年7月17日(1600年8月25日)、夫の忠興が出陣している間に、大坂玉造(たまつくり)の細川屋敷を、石田三成(いしだ みつなり)方に囲まれました。ガラシャは人質になることを拒み、侍女たちを屋敷から出したあと、家老の小笠原秀清(おがさわら ひできよ、少斎〈しょうさい〉)に介錯(かいしゃく、最期を助けること)をさせたとするのが一般的な説明で、屋敷には火が放たれました。キリスト教では自殺が禁じられていたことが背景にあるとされます。没日を7月16日とする辞典もあります。 ただし、最期の様子は記録によって食い違いがあります。太田牛一(おおた ぎゅういち)の『関ヶ原御合戦双紙』(せきがはらごがっせんぞうし)は、写本によって、自ら胸を刺したとするものと、子を刺してから自害したとするものがあります。ほかにも、母が子を殺したという噂を記した日記や、夫人と子2人、供の女3人が自害したとする記録があります。享年は数え年で38です。辞世の句が伝わっています。 【墓所】 遺骨は、オルガンティノ神父が拾い、堺(さかい)のキリシタン墓地に葬ったとされます。慶長6年(1601)、忠興がオルガンティノに教会での葬儀を依頼して参列し、遺骨を大坂の崇禅寺(そうぜんじ)へ改葬しました。墓所とされる場所には、ほかに京都の高桐院(こうとういん)、熊本の泰勝寺(たいしょうじ)などがあります。