TabiShiri
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僧侶平安・鎌倉

法然上人

ほうねんしょうにん

1133 〜 1212

僧侶「法然上人」(平安・鎌倉)

別名・通称

法然、源空、法然房、法然房源空、円光大師、勢至丸(幼名)

平安時代の終わりから鎌倉時代のはじめの僧で、浄土宗(じょうどしゅう)の開祖です(1133年から1212年)。美作国(みまさかのくに、今の岡山県)に生まれ、比叡山(ひえいざん)で学んだのち、43歳のとき、阿弥陀仏(あみだぶつ)の名を称える専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを立てました。京都の東山に庵を結んで教えを広めましたが、1207年に念仏がとめられ、讃岐(さぬき)に流されました。京へ戻った翌年、大谷(おおたに)の禅房で数え年80歳で亡くなりました。
生涯・逸話
【生まれと少年時代】 長承2年(ちょうしょう2ねん、1133年)4月7日、美作国久米南条稲岡荘(みまさかのくに くめなんじょう いなおかのしょう、今の岡山県久米郡久米南町)に生まれました。父は、地方の役人にあたる押領使(おうりょうし)の漆間時国で、母は秦氏(はたうじ)の出です。幼名は勢至丸といいます。生まれた地には、今、誕生寺(たんじょうじ)が建っています。誕生寺は、建久4年(1193年)に熊谷直実(くまがいなおざね)が開いたと紹介されています。 伝記の『四十八巻伝』は、保延7年(ほうえん7ねん、1141年)、9歳のとき、父が明石定明らの夜討ちにあって亡くなったと語っています。父の死と出家を結びつけて語る伝記もありますが、二つは関係がないとする見方もあります。 【比叡山での修行】 比叡山には、1145年(天養2年)に登ったとする説と、1147年(久安3年)とする説があります。はじめ源光(げんこう)に学び、のちに皇円(こうえん)のもとで得度(とくど、僧になる儀式)を受けました。1150年(久安6年)には比叡山の西塔(さいとう)にある黒谷(くろだに)に移り、叡空(えいくう)に師事しました。このとき、法然房源空(げんくう)と名乗ったとされます。 【43歳の転機】 承安5年(じょうあん5ねん、1175年)、43歳のとき、善導大師(ぜんどうだいし)の『観経疏』(かんぎょうしょ)の一文に出会い、阿弥陀仏の名を称える念仏によって往生(おうじょう、極楽に生まれること)できると確信しました。これが専修念仏の教えで、浄土宗の始まりとされます。比叡山を下りたあとは、京都の東山にある吉水(よしみず)に庵を結び、念仏の生活と教えを広める日々を送りました。京都市左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)も、法然が比叡山の黒谷を下りて草庵を結んだ場所とされています。 【選択集と教えの広まり】 建久9年(けんきゅう9ねん、1198年)には、九条兼実(くじょうかねざね)の頼みに応じて、教えの要点をまとめた『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)を著しました。兼実は法然の教えを信じた人で、法然は兼実の娘の受戒(じゅかい)の師として招かれたこともあります。 【念仏がとめられる】 承元元年(じょうげん元年、建永2年、1207年)、念仏をとめる命令が出されました。弟子の住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)は死罪となり、法然や親鸞(しんらん)ら弟子たちも流罪になりました。この出来事は、建永の法難(けんえいのほうなん)や承元の法難と呼ばれます。法然の流罪先は、はじめ土佐国と決まりましたが、九条兼実の庇護により、九条家の領地があった讃岐国に改められ、法然は土佐へは行かなかったとされます。讃岐では10か月ほど教えを広めたといいます。 赦免の年は、資料によって1207年12月、1210年、1211年11月と分かれます。京へ戻ることが許されたのは建暦元年(けんりゃく元年、1211年)で、法然は大谷の禅房(ぜんぼう)に入りました。 【最期】 建暦2年(1212年)1月25日、大谷の禅房で亡くなりました。数え年で80歳(満で78歳)でした。この年には、念仏の心をわかりやすく書いた『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)を書いたと伝えられます。 【墓所とゆかりの寺】 大谷の禅房があった地には、今、浄土宗の総本山である知恩院(ちおんいん)が建ち、法然上人御廟(ごびょう)があります。嘉禄3年(かろく3ねん、1227年)、廟所が壊される事件が起こり、遺骸はいくつかの寺に移されたあと、翌年に火葬されて、遺骨は知恩院などに分けて納められました。法然には、のちの時代に「円光大師」などの大師号が贈られています。法然ゆかりの寺には、生誕の地の誕生寺(岡山県久米南町)、念仏の教えを広めた地の知恩院(京都市東山区)、金戒光明寺(京都市左京区)などがあります。