武将戦国時代
北条氏政
ほうじょううじまさ
1538 〜 1590

別名・通称
氏政、新九郎、截流斎
生涯・逸話
北条氏政を理解する鍵は、父の氏康から受け継いだ関東の大きな領国を、武田、上杉、そして豊臣という強い勢力のあいだで守ろうとした点にある。
年齢は、すべて数え年で書いている。
【生まれと家督】
天文7年(1538)、北条氏康の次男として生まれた。母は今川氏親の娘の瑞渓院(ずいけいいん)である。生年は天文8年(1539)とする説もある。通称は新九郎、号は截流斎という。
兄の氏親が16歳で亡くなったため、天文21年(1552)ごろに跡継ぎとなった。永禄2年(1559)12月23日、父の氏康の隠居により、後北条氏の4代当主となった。
【武田・上杉との関わり】
天文23年(1554)の相甲駿三国同盟(そうこうすんさんごくどうめい、北条・武田・今川の同盟)のころに、武田信玄の娘の黄梅院(おうばいいん)を妻に迎えたとされる。
その後は、上杉謙信と越相同盟(えっそうどうめい)を結び、弟の三郎(のちの上杉景虎)を養子として送った。元亀2年(1571)12月にこの同盟を破り、武田氏との同盟(甲相同盟)を復活させた。
天正2年(1574)には関宿城(せきやどじょう)を攻め落とし、天正6年(1578)ごろには下野(しもつけ、現在の栃木県)で佐竹氏・宇都宮氏と向き合った。
【汁かけ飯の逸話】
氏政が食事のときに、飯に汁を二度かけたのを見て、父の氏康が、毎日食べる飯にかける汁の量も分からないようでは先が思いやられると嘆いた、という話が伝わる。これを「氏政の汁かけ飯」という。
ただし、この話は史実としては確かめられていない。氏政を能力に欠ける人物とする見方は、18世紀半ばの『関八州古戦録』のころが古いとされ、後世の創作が多いと考えられている。同じような話が、毛利元就と輝元の話としても伝わっている。
【隠居と小田原征伐】
天正8年(1580)8月19日、子の氏直に家督を譲った。隠居後も、実権は氏政が持ち続けたとされる。
豊臣秀吉の上洛の命令に応じなかったため、天正18年(1590)3月から豊臣軍と戦いになり、4月から約3か月、小田原城に籠城した。7月5日、氏直が自分の切腹と引き換えに将兵の助命を求めて、降伏した。
秀吉は、北条氏の討伐を招いた責任者として、氏政と、その弟で八王子城主の氏照に切腹を命じた。氏政は、7月11日に切腹した。53歳である。
【その後の後北条氏】
氏直は、徳川家康の娘の督姫(とくひめ)を妻にしていたことなども考えられて助命され、高野山で謹慎した。天正19年(1591)8月、秀吉から河内などで1万石を与えられたが、同年11月4日に30歳で亡くなった。
氏直の従弟で、叔父の氏規(うじのり)の子の氏盛(うじもり)が名跡を継いだ。慶長3年(1598)に1万1千石の大名となり、以後、後北条氏の本家は、河内狭山藩の藩主家として幕末まで続いた。
【墓所とゆかりの地】
北条氏政・氏照墓所は、神奈川県小田原市にある。長く放置されていたが、江戸時代に稲葉氏が小田原に在城した頃に作り直された。関東大震災で埋もれたが、翌年に地元の有志が復興した。
早雲寺(神奈川県箱根町湯本)には、後北条氏5代の墓がある。寛文12年(1672)に、狭山藩主の北条氏治が建てた供養塔である。氏政の妻の黄梅院の名は、早雲寺の塔頭(たっちゅう、境内の子院)の一つに残る。
静岡県富士市の源立寺には、氏政の首塚がある。
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